パン作りの伝統?

このところ、ほぼ毎日のように妻がパンを焼いている。朝、我が家はパンなので、市販の食パンなんぞよりは自分で作ったほうが安上がりだしおいしいし安心だ、というので、毎晩、台所でごそごそやっている。なんでもイーストを普通の10分の1ぐらいしか使わないそうで、それだけ発酵に時間がかかるものの、味はいい、ということらしい。というわけで、寝る前に仕込んで翌日焼く、という日々のようだ。

やるとなると凝り性の性格が思う存分発揮されるのが妻で、本屋にいってはパン焼きのムックなぞを買ってきたり、ネットで手作りパンのサイトをあちこち探したりしていたのだけど、昨日、非常に面白いことをいっていた。

昔から、「パンはしっかりこねる」のが基本だ、そうしないとうまく作れない、といわれ続けてきたのだけど、最近は「こねなくてもおいしいパンはできる」というのがあちことで見つかる。実際、やってみるとおいしく作れる。しばらく前から妻が毎日のように焼いているのは「まったくこねないパン」というやつなのだけど、はっきりいって、そのへんのパン屋のものなんぞよりははるかにおいしい。

「結局、昔からいってた、『パンはこねないとおいしくできない』っていうのは、いったい何だったの?」

――何だったんだろう。妻が言うには、それは「最初に伝えた人が、こねたから」ではないか。つまり、最初に日本にパン作りを伝えたのが、「パンはこねるほどうまく作れる」という考えの人たちで、それが当たり前のように広まってしまったのではないか。

なるほど、妻の言うのはもっとも、うなずけることろがある。日本という国は、どんなものであれ、長く続くと自動的に「道」というものができあがり、「ただそれをそのままに後世に伝える」ことこそが使命であるかのように変容してしまうところがある。パンも、日本に伝えられ、それを受け継いだ人たちが次の世代へ……と伝えているうちに、「パンはこう作るのが基本です。それ以外は邪道だ!」的な「パン道」のようなものができあがってしまったんじゃないだろうか。

長く伝わるものは、「長く伝わるから立派」なわけじゃない。長い間に、「ああしたほうがいい、こうしたほうがいい」と試行錯誤し、もっともよいと思われる方法へたどり着く。そうした結果が伝統となる――と思いたい。が、必ずしもそうではなく、試行錯誤することもなく「ただ、漫然と長く続いてしまった」というものも、中にはある。

たとえば、ピアノで最初に習うバイエル。日本に最初に伝わったピアノ入門書がバイエルだったことから、長い間、「バイエル信仰」のようなものが続いてしまった。確かにバイエルは昔のクラシックを学ぶには適したものだが、印象派や現代の楽曲を学ぶには適していない。だが、未だに「ピアノはバイエルから」とお題目のように唱えるピアノ教師は多い、という。うちの近所にも、そうしたピアノの先生は確かにいる。

長く伝えられるものには、「厳しい検証にさらされた結果、生き残ったもの」もあれば、「内容を精査されることもないまま、ただ伝わってきたもの」もある。それを見極めた上で、それを受け入れるか後世に伝えるかを判断することも、また重要なのかもしれない、と思ったのでした。「たかが、家庭のパン焼き程度に、よくまあそんな大仰なことを考えるな」と思った人。あなたの考えは、正しい。

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