移植せずば人にあらず

ついこの間、本人の意思ではなく家族の意思により脳死患者の臓器移植が国内初めて行われた――というニュースを見たはずだが、気がつけば既に3例目の移植が開始となっている。感覚的には「毎日、どっかで臓器移植している」ような世の中になりつつあるのを感じる。

それもこれも、臓器移植法の改正によるものだ。それまでは「本人が臓器移植を許可する意思表明をしている場合に限り」移植ができたのだが、改正により「本人の意思が確認できない場合、家族の意思で移植ができる」というように変わってしまった。これ、実はとんでもなく大きな改正だったんだよ。つまり、それまでは「移植します!」という人だけが移植を行える、というものだったのが、今は「移植しない!」という人以外は全部移植できるようになってしまったのだ。

もちろん家族の許諾が必要というのはありますよ、ええ。だけどね。いきなり身内がなくなってショック状態の遺族に、「移植しないと死んでしまう人がいっぱいいるんだけど、断ってそういう人たちを死なせるつもりですか?」と訊かれて、断れる人がどれだけいるだろうか。いや、そりゃあ直接そういう言い方はしないだろう。だけど、要はそういうことではないか。移植をすれば大勢の人が助かる。許可しますか? それは裏返せば「断ったら何人も死ぬぞ」といってることになる。どう言い方を変えようが、結局、その事実は変えようがない。自分の身内が突然死んだという状況の中で、このプレッシャーを跳ね返せる人がどれだけいるだろうか。

ほんの少し前まで、移植は異端だった。臓器移植をしたというと、「自分の身内の体を切り刻んで人様にあげるなんて……」と眉をひそめる人も多かった。中には「臓器一つでいくらもらったんだ?」とまで言う人もいたそうだ。

反論を承知でいおう。僕は、それが「正常な感覚」だと思う。それが、人の死に対する真っ当な感覚だと思う。死んでいるのに、まだ生かされ続ける人間の体を切り刻み、その臓器をもらってまで生かされ続ける、そうまでして生きないといけないという考え方が、僕はどうも受け入れがたい。今までの長い歴史の中で、人は「天命に従って生きる」ことを学んできた。助かるものは助かるが、助からないものは助からない。それを受け入れて生きてきた。が、医療の発達は「助からないものが助かるようになる」時代を手元に引き寄せてしまった。

いや、待て。僕はここで「臓器移植は誤りだ」とか主張したいわけじゃないのだ。したい人もいるだろう、それはそれでかまわない。僕がいいたいのは、「人は、そのどちらかを選べるのだろうか」ということなのだ。僕は「選べる」のだと思っていた。移植したい人はする、したくない人はしない、そういうものだと思っていた。――だが、実はそれは間違いだったのかも知れない。人は、多くのところで既に「選択する」ということを放棄してしまった。

今までは、「移植をする」という人が声を上げる必要があった。それ以外の人は、黙っていれば勝手に移植されることはなかった。だが、今は逆だ。移植をしたくない人が、自分で「したくない」と声をあげないといけないのだ。黙っていたら、勝手に移植されてしまう時代となってしまった。

それはすなわち、それまで「他人から臓器をもらってまで生きるなんて……」と思われていた世間の感覚が、今度は「死んだのに、まだ使える臓器を人様にあげようともしないで死ぬなんて……」という方向にシフトするだろうことを意味する。これからは、「移植を拒否する」ほうが、世間から白い目で見られる時代となることを意味する。そうじゃないか?

これは、「移植する側」だけでなく、「される側」の意識も変えるだろう。例えば自分の身内が重い病気となったとき、移植しか道がないとなったとき、「移植しない」という選択をすることは、人でなし呼ばわりされるだろう。

それまで僕は、移植法案は、「選択の機会を与えるもの」だと思っていた。だが、実は世の中の大半のことは「選択」などできないのだ。常に「どちらを選ぶのが世間的に正しいか」が決められている。正しいほうを選ぶのが当然で、そうでない方を選ぶことは多大なる負荷がかかる仕組みになっているのだ。世間というやつが、どちらを選ぶか決める。僕らが自由意志で決められることは、存外に少ない。

移植法の改正は、「より自由に選択できるようにするもの」ではなく、「こちらを選択するのが当たり前だったのを、あちらを選択するのが当たり前に変えるもの」に過ぎなかった。――さあ、これから受難の時代が始まる。「移植を拒否する者」にとっての、受難の時代が。世の中ってのは、常にそうだ。それまでいじめっ子だった側も、いずれはいじめられっ子の側に回るのだ。

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