援助という名の祭(4)

これも、書くべきかどうかずいぶんと迷ったのだけど……。

僕と妻の共通の友人のそのまた友人が、被災地へ「本とおもちゃ」を送ろうとしている。被災地の子供たちのために……というその気持はとても素晴らしいことだと思う。だが、そこで「卒園などでもう使わなくなったおもちゃや本を送ってほしい」と呼びかけている、というのを聞いて、僕と妻は思わず「違うだろ!」と突っ込んでしまったのだった。

なぜ、「使いふるし」を集めて送るのだ? なぜ、「新しいおもちゃと本を買って送ろう」とはならないのだ? そこのところがどうしても僕らには納得ができなかった。――わかってる、「どこが問題なの? 自分たちが使わないものを被災地で役立てて欲しいと思うどこがおかしいの?」という意見があるのはもちろんわかっている。

阪神大震災の時、日本中から古着が送られて大変迷惑した、という話を耳にしたことがある。山のような古着の処分に1億近くかかったという自治体もあったという。これでは一体、何のための援助なのかわからない。ただ、送りさえすればいい、というものではない。何が必要なのか、それを考えなければならない。

大きな災害には、多くの人の善意からなる援助が不可欠だ。だが、一言で「援助」といっても、その内容はさまざまだろう。例えばその緊急の度合から考えれば、「一刻の猶予もならない援助」「極力早く送るべき援助」「早く送ることより、しっかりとその内容を考えて送るべき援助」というようなものがあると思う。

こうした災害で、なによりすぐに送らなければならないのは「命に関わるもの」だ。例えば医薬品、例えば水、食料。これらはとにかくすぐに送らなければならない。また、地震と津波から着の身着のままに逃げてきた人たちには、使い古しだろうがなんだろうが1枚の毛布がどれだけ大切かはわかる。それは、体力を消耗した人々にとって1分を争うものだろう。

だが、同じ「1枚の毛布」であっても、震災から10日過ぎた避難所に必要な「1枚の毛布」はどうだろうか。それは1分1秒を争うものだろうか。もちろん、とにかく早く送るべきものであることは間違いない、だがそれは、例えば「送るのが30分遅れたら致命的となるもの」だろうか。つまり、「家にある古い毛布をただちに持っていくべきか、それとも布団屋にいって新しい毛布を買ってそれを送るべきか」ということなのだ。今すぐ家にある古い毛布を車に積んで走りだせば、布団屋に寄って毛布を買うより15分は早く現地につくかも知れない。だが、それより15分後に届く新品の毛布よりそんなにも価値あるものだろうか。

もちろん、早く送るべきことなのはわかっている。そのことを問題としているわけじゃない。ただ、「5分10分の時間より、大切なものがないだろうか」ということなのだ。初動の医薬品などの命に関わるものなら、確かに5分の遅れが命取りとなることもある。だが、今、震災から10日以上過ぎた今、送るべきものは、ほんのわずかの時間を最優先すべきものなのだろうか。

なぜ、おもちゃ屋にいって新しいおもちゃを買って送るのではいけないのだろう。「それじゃあ、たくさん送れない」だろうか。本当に? それぞれが、家にあるおもちゃを送る代わりに、それと同じだけのおもちゃを「買って」送るのはそんなにも膨大な費用がかかるだろうか。それとも、「もう子供もたいして遊ばないおもちゃをあげるのはかまわないが、自腹を切って新品を買って送るなんてまっぴら」と思うから、だろうか。

さまざまな援助は、人々の善意の集合体である。では、それを受け取る側は、その善意を無条件ですべて受け取らねばならないのだろうか。僕らは「善意の質」を考えているだろうか。質の悪い、役に立たない善意ばかりが無駄に集められているということはないだろうか。

傷ついた人々に、僕らが何らかの援助をしようと思うとき、何よりも大切にしなければならないのはなんだろう。まずは、やはり「命」だろう。とにかく命を救わなければならない、これは再優先すべきことだ。では、次は? 命の次に大切にすべきものはなんだろうか。

僕は、それは「人としての尊厳」だろうと思う。どのような支援であれ、それは支援される側の尊厳を傷つけるものであってはならないと思う。どこの誰が着たかもわからない古着を山と送られた人間の尊厳はどうなるのだろうか。

傷つき疲れきった子供たちに「さあ、おもちゃですよ、本ですよ!」と声が届く。子供たちが思わず駆け寄ると、一人ひとりに、どこかの知らない子供の名前が書いてある使いふるしのおもちゃが手渡される。僕がその子なら、ぎこちない作り笑いを浮かべて受け取り、それから避難所の裏にかけていって、もらったおもちゃを投げ捨てるだろう。「畜生!」と叫びながら。子供にも、人としての尊厳はある。人が、人として尊重しなければならない尊厳は確かにある。

人が人に援助をする。それがどんなに「傲慢」なことかということを僕らは時として忘れてしまう。人が人に「施す」という行為に潜む尊大さを僕らは気づかずに通りすぎる。だが、忘れてはいけない。何かを援助するというだけで、そこには「援助する側」と「援助される側」という抗いがたい上下関係が生まれるのだ。上の立場、強い立場の人間が、下の立場、弱い立場の人間に援助をする、施しをする、その構図に多くの人は気づかない。気づかずに上からにこやかに善意を押し付ける。断ることのできない善意を。

だからこそ僕らは、「誰かに援助をする」というとき、自分が傲慢ではないか、尊大ではないか、相手の人としての尊厳を傷つけているのではないか、ということを注意深く考えなければならない。人として、対等に支援するというのはどういうことか、どうあるべきか、そのことを考えなければならない。

災害で傷ついた人々を、その後の「援助」という名の善意によってさらに深く傷つけることがあってはならない。決して。――今、さまざまな援助を考えている皆さん。どうかほんの少しだけ考えてみてください。あなたが送ろうとするもの、それは「あなたが、どこの誰かもわからない赤の他人からいきなり送りつけられた」としても心から喜べるものですか。せっかくの善意、ならば極力「良質な善意」として送ろうじゃありませんか。

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