NewsWeekが「アップルと悪魔の取引」として、アップルが委託するFoxconnの工場のレポートを掲載していた。昨年あたりからぽつりぽつりとこうした記事が出てくるようになってきた。が、まだまだ知られていない。
アップルの最初の大ヒット製品であるapple ][の時代から、僕はアップル製品を使い続けてきた。若い頃はアップルショップでMacやApple //cを売ったりしていたんだから当たり前だが、それなりに筋金入りのアップルファンだったと思う。だがここ何年か、どうもアップルとは距離をおくようになってきた。
1番の理由は、アップルの閉鎖性に辟易してきたということなのだけど(世間ではジョブスは亡くなって神になりつつあるけど、僕は彼がやってきてからアップルはおかしくなったと思ってる)、もう1つの理由は、その製品管理のあり方に疑問を覚えるようになってきたためだ。自社工場をもたず第三世界の安い労働力を使ってすべて外部発注で製品管理する手法は、ジョブスではなく今のCEOであるティムによって確立されたものだったと思うが、それは確かにアップルにこの業界としてはあり得ないほどの高い利益率をもたらした。それを成功というなら、確かにアップルは成功した。世界でトップの企業価値を持つ会社になったのだから。
だがしかし、利益ではなく、企業価値でもなく、もっと別の尺度を持って企業の点数をつけるとしたら、果たしてアップルは高得点だろうか。前にもユニクロの話で書いたけど、僕は「企業の成功」とは、「その企業があることでどれだけの人々が幸せになれたか」だと思う。
アップルの製品によってどれだけの人々が幸せになれたか。確かにiPodやiPhoneにより暮らしが変わった人はたくさんいるだろう。アップル製品を所有することに幸せを感じる人はごまんといるはずだ。だからアップルが多くの人に幸せを運んでいるというのは間違いではない。
ただ、思うのだ。その人々は、果たして自分の愛するiPhoneがどのように作られているかを理解しても、尚、その製品を愛し続けることができるのだろうか、と。中国の女工による過酷な労働によって作られた製品を愛することなど僕にはできそうにない(いや、もともと「モノ」を愛したりはできない人間だけど)。その製品を作るために何人もの労働者が自殺していることを知って尚、iPhoneを絶賛できる人はどれだけいるのだろうか。(――いや、いるんだろうな。たぶん、僕が思う以上にたくさん。世の中には「中国人の命など虫けら以下」と思ってる人は想像以上に多いみたいだから)
もちろん、アップルだけがそうした過酷な労働を強いているわけではない。DellもHPも、アップルと同様に中国のFoxconnで製品を作っている。ただ、「みんなやってる」、だから悪くない、というのは、せいぜい万引きした中学生までしか通用しない理屈だ。誰がやっていようが、悪いことは悪いのだ。
だから。この種のデジタルガジェットを使う人々に、もうちょっとだけ「世界をよりよいものにする」ことを意識できるようにできないか、と思うのだ。そこで、「フェアトレード」だ。既にコーヒーなどでは用いられている。真っ当な価格で取引されたコーヒー。確かに他のものよりは多少高いが、しかしそのお金は先進国の商社などではなく、コーヒーを生産する生産者にきっちりと支払われる。彼らが人間的な営みをできるほどの収入を得られるように。
ある試算によれば、iPhoneの生産に従事する労働者たちがまっとうな労働条件のもとに働けるようにするためにかかるコストは65ドルだという。つまり、65ドル高いiPhoneを受け入れることが出来れば、それを生産する女工たちが工場の屋根から飛び降り自殺することを防げるかも知れないのだ。
今までのものとは別に、65ドル高い「フェアトレードiPhone」を販売することは不可能だろうか。いや、iPhoneに限らない。すべてのデジタルガジェットに、「フェアトレード製品」を。それにより、「最先端をゆく製品を使う先進諸国の金持ちたちが、第三世界の奴隷の上にあぐらを書いて暮らしている」という現状を多少なりとも改善できるんじゃないかと思うのだがどうだろう。
ちなみに、あなたの暮らしを何人の「見えない奴隷」が支えているか、下のサイトで計算することができる。一度試してみて欲しい。ちなみに僕は、40人だった。
http://slaveryfootprint.org/survey/
Tuyano Blog
SYODA-Tuyanoの公式ブログです。
2012年1月24日
2011年10月15日
Google+、はまり中
ダメだ。ダメ人間突入中。はまりまくっております、Google+。
仕事中も、、つい覗いてしまう。おもしろすぎる。次々ストリームに現れる世界中の人達の投稿が実に興味深くて、ついつい読みふけり、コメントし、気がつけば小一時間も過ぎていたりする。この忙しいのにまったく。
何がそんなに面白いのか。既に何度も書いたけど、世界中の「まったくの無名の人々」とつながることが、実に面白いのだ。これにはGoogleが提供する翻訳プラグインの力も大きい。ワンクリックで世界中のどんな言語で書かれたコメントも日本語に変わる。もちろん、かなりむちゃくちゃな訳も多くて、解読困難なことも多々あるけど、たいていは「なんとな~く意味はわかる」程度には訳してくれる。
「+1」ボタンを押すだけでも意思疎通は図れるのだけど、僕がはまってしまったのはコメントだ。つい、気になる投稿にコメントを書いてしまう。Google先生に教えてもらいながら、英語、ロシア語、スペイン語、韓国語、中国語、アラビア語、さまざまな言語でコメントをする。たぶん、向こうからしたらなんだかわからないコメントが付いてる可能性もある。ただ、いろいろ試してみた結果なんだが、とりあえず日本語から英語にし、ある程度まともな英語から他の言語に翻訳すれば、それなりに変換できるようだ(相手からのResの感じで、だいたい伝わってるのはわかる)。この「日本語→英語→その他」という仕組みがわかったあたりから、俄然、コメントが面白くなってきた。
しかもGoogle翻訳、いつからか知らないが、よくつかう言語がボタンに自動登録され、ワンクリックでいくつもの言語に翻訳を切り替えられるようになってる。これで、翻訳してはコピー&ペーストして再翻訳、というのを何度か繰り返せば、意外とまともなコメントができあがる(と思う。相手からしたら「なんだこのわけわからん文章?」という感じのものかも知れないけど)。
そして、久しぶりに朝から晩まで英語やその他の言語の文章をつらつら眺める生活になって、「言語は慣れだ」ということを思い出した。日に何度か中国の高校生とメールでやりとりしているけど、その程度ならGoogle先生に見てもらわなくても英文で返事を書けるようになってきた。高校生以来だぞ、英文書くのは。なにしろお互いに英語は外国語だから、多少の間違いはお互いに大目に見てもらえるのがいいね、うん。
今までTwitter、mixi、Facebookと似たようなサービスはあったけれど、正直、どれもまったく興味がわかなくてほとんど「アカウントだけとって放置」という感じだった。それが、Google+だけはハマっている。これはやっぱり、「Facebook = 基本は知り合いのみ」「Twitter = 基本はフォローして眺めるだけ」というのに対し、Google+は知り合い、著名人だけでなく、それまで全く縁のなかった「世界中の赤の他人」に猛烈な速さでつなげっていけるところにあるのだろうと思う。
何かの検索をする
↓
面白い投稿が見つかる
↓
それをフォローする
↓
その人の投稿がストリームに出てくるようになる
↓
投稿を共有したりコメントしたりする知らない人も出てくる
↓
面白いコメントをする人をフォローする
その人の投稿がストリームに出てくるようになる
↓
更にその人にコメントする知らない人も出てくる
↓
更にそのコメントする人をフォローする……
こんな感じで、気がつけばフォローする人もされる人も軽く200人を超えていた。フォローしているのは8割以上が日本人以外、フォローされるのは日本人とそうでない人と半々ぐらいだ。なにより、相手をフォローしたり外したりするのに相手の許諾が不要なのがいい。勝手にフォローでき、その勝手にフォローした相手に勝手にコメントをつけたりできる。いや、コメントだけならフォローしなくても付けられる。この手軽さ故に、とにかくすごい勢いでフォロー相手が膨らんでいく。
とにかく面白い人間がたくさんいる。とてつもなくIT業界に詳しいブルネイのうら若き女性。味わい深い写真を毎日投稿するロシアのアマチュアカメラマン。どこからか笑える動画を見つけてくるアメリカの女の子。哲学者?という風貌と重々しいコメントをするどこかの国の(キリル文字を使うどっか)老人。
こうした国境を超えたつながりは、もちろんTwitterでもFacebookでもできるだろう。が、Google+がこれらと一線を画すのは、時としてそこが「議論の場」に様変わりするという点にある。ダライ・ラマの投稿に、突如、そこで数百人の人々による「人生の意義に関する議論」が始まったりする。Twitterでは文字数制限があり深い議論はできない。Facebookでは気軽に他人と友だちになれないし、いわゆるファンページは見るだけで相手に議論をふっかけることもできない。
Google+では、たいていは数行程度の書き込みだが、時として延々と何十行にも渡る投稿がされることもよくある。僕も、ブログ並みに長大な文をときどき投稿したりする。やろうと思えば、長大な自己主張もできる。これはGoogle+の大きな特徴だ。そして、誰でもそれに対し反論したり同意したり、ディープな議論をふっかけたりできる。
この「がちゃがちゃさ」がGoogle+の魅力なのだろう。整理整頓されていない感じ。玉石混淆。Facebookのつながりはお行儀がよすぎる。Twitterは軽すぎてディープなやり取りができない。Google+は、それができる。素晴らしい。
「Google+、やってみたけど別に……」という人。とりあえず、
1.ブラウザをChromeにする。
2.Google翻訳プラグインを入れる。(ここにある)
3.Google+で、興味あることについて片っ端から検索してみる。
4.検索で見つかった、ちょっと面白そうな人をフォローする。いやならいつでも外せるんだから、とにかく片っ端から入れる。「日本人でないと……」と思わないこと! 日本人以外、日本語・英語以外の人もどんどん入れていくと、それに比例して急速に面白くなっていく。
5.流れてきた投稿を、翻訳機能で読んでみる。意味がわからなかったら、次!
6.面白い投稿には、とりあえず+1。慣れてきたら、Google翻訳でとりあえず英語にしてコメントをつけてみる。
……ここまでくれば、かなりハマる人はハマるし、はまらない人は飽きる。とにかく「知人でも有名人でもない人たちを百人フォローする」というのを目標にしましょう。そうするとストリームに流れる内容が劇的に変わります。「百人も……」と思った人。大丈夫、ほんの1時間程度でそのぐらいにはなってるはずだから。
仕事中も、、つい覗いてしまう。おもしろすぎる。次々ストリームに現れる世界中の人達の投稿が実に興味深くて、ついつい読みふけり、コメントし、気がつけば小一時間も過ぎていたりする。この忙しいのにまったく。
何がそんなに面白いのか。既に何度も書いたけど、世界中の「まったくの無名の人々」とつながることが、実に面白いのだ。これにはGoogleが提供する翻訳プラグインの力も大きい。ワンクリックで世界中のどんな言語で書かれたコメントも日本語に変わる。もちろん、かなりむちゃくちゃな訳も多くて、解読困難なことも多々あるけど、たいていは「なんとな~く意味はわかる」程度には訳してくれる。
「+1」ボタンを押すだけでも意思疎通は図れるのだけど、僕がはまってしまったのはコメントだ。つい、気になる投稿にコメントを書いてしまう。Google先生に教えてもらいながら、英語、ロシア語、スペイン語、韓国語、中国語、アラビア語、さまざまな言語でコメントをする。たぶん、向こうからしたらなんだかわからないコメントが付いてる可能性もある。ただ、いろいろ試してみた結果なんだが、とりあえず日本語から英語にし、ある程度まともな英語から他の言語に翻訳すれば、それなりに変換できるようだ(相手からのResの感じで、だいたい伝わってるのはわかる)。この「日本語→英語→その他」という仕組みがわかったあたりから、俄然、コメントが面白くなってきた。
しかもGoogle翻訳、いつからか知らないが、よくつかう言語がボタンに自動登録され、ワンクリックでいくつもの言語に翻訳を切り替えられるようになってる。これで、翻訳してはコピー&ペーストして再翻訳、というのを何度か繰り返せば、意外とまともなコメントができあがる(と思う。相手からしたら「なんだこのわけわからん文章?」という感じのものかも知れないけど)。
そして、久しぶりに朝から晩まで英語やその他の言語の文章をつらつら眺める生活になって、「言語は慣れだ」ということを思い出した。日に何度か中国の高校生とメールでやりとりしているけど、その程度ならGoogle先生に見てもらわなくても英文で返事を書けるようになってきた。高校生以来だぞ、英文書くのは。なにしろお互いに英語は外国語だから、多少の間違いはお互いに大目に見てもらえるのがいいね、うん。
今までTwitter、mixi、Facebookと似たようなサービスはあったけれど、正直、どれもまったく興味がわかなくてほとんど「アカウントだけとって放置」という感じだった。それが、Google+だけはハマっている。これはやっぱり、「Facebook = 基本は知り合いのみ」「Twitter = 基本はフォローして眺めるだけ」というのに対し、Google+は知り合い、著名人だけでなく、それまで全く縁のなかった「世界中の赤の他人」に猛烈な速さでつなげっていけるところにあるのだろうと思う。
何かの検索をする
↓
面白い投稿が見つかる
↓
それをフォローする
↓
その人の投稿がストリームに出てくるようになる
↓
投稿を共有したりコメントしたりする知らない人も出てくる
↓
面白いコメントをする人をフォローする
その人の投稿がストリームに出てくるようになる
↓
更にその人にコメントする知らない人も出てくる
↓
更にそのコメントする人をフォローする……
こんな感じで、気がつけばフォローする人もされる人も軽く200人を超えていた。フォローしているのは8割以上が日本人以外、フォローされるのは日本人とそうでない人と半々ぐらいだ。なにより、相手をフォローしたり外したりするのに相手の許諾が不要なのがいい。勝手にフォローでき、その勝手にフォローした相手に勝手にコメントをつけたりできる。いや、コメントだけならフォローしなくても付けられる。この手軽さ故に、とにかくすごい勢いでフォロー相手が膨らんでいく。
とにかく面白い人間がたくさんいる。とてつもなくIT業界に詳しいブルネイのうら若き女性。味わい深い写真を毎日投稿するロシアのアマチュアカメラマン。どこからか笑える動画を見つけてくるアメリカの女の子。哲学者?という風貌と重々しいコメントをするどこかの国の(キリル文字を使うどっか)老人。
こうした国境を超えたつながりは、もちろんTwitterでもFacebookでもできるだろう。が、Google+がこれらと一線を画すのは、時としてそこが「議論の場」に様変わりするという点にある。ダライ・ラマの投稿に、突如、そこで数百人の人々による「人生の意義に関する議論」が始まったりする。Twitterでは文字数制限があり深い議論はできない。Facebookでは気軽に他人と友だちになれないし、いわゆるファンページは見るだけで相手に議論をふっかけることもできない。
Google+では、たいていは数行程度の書き込みだが、時として延々と何十行にも渡る投稿がされることもよくある。僕も、ブログ並みに長大な文をときどき投稿したりする。やろうと思えば、長大な自己主張もできる。これはGoogle+の大きな特徴だ。そして、誰でもそれに対し反論したり同意したり、ディープな議論をふっかけたりできる。
この「がちゃがちゃさ」がGoogle+の魅力なのだろう。整理整頓されていない感じ。玉石混淆。Facebookのつながりはお行儀がよすぎる。Twitterは軽すぎてディープなやり取りができない。Google+は、それができる。素晴らしい。
「Google+、やってみたけど別に……」という人。とりあえず、
1.ブラウザをChromeにする。
2.Google翻訳プラグインを入れる。(ここにある)
3.Google+で、興味あることについて片っ端から検索してみる。
4.検索で見つかった、ちょっと面白そうな人をフォローする。いやならいつでも外せるんだから、とにかく片っ端から入れる。「日本人でないと……」と思わないこと! 日本人以外、日本語・英語以外の人もどんどん入れていくと、それに比例して急速に面白くなっていく。
5.流れてきた投稿を、翻訳機能で読んでみる。意味がわからなかったら、次!
6.面白い投稿には、とりあえず+1。慣れてきたら、Google翻訳でとりあえず英語にしてコメントをつけてみる。
……ここまでくれば、かなりハマる人はハマるし、はまらない人は飽きる。とにかく「知人でも有名人でもない人たちを百人フォローする」というのを目標にしましょう。そうするとストリームに流れる内容が劇的に変わります。「百人も……」と思った人。大丈夫、ほんの1時間程度でそのぐらいにはなってるはずだから。
2011年10月11日
技術は世界を変えられるのか?をGoogleは本気で試している
見たか? 世紀のビデオチャットを。そう、10月8日、日本時間で午後5時半。ダライ・ラマと南アのツツ大司教が、Google+のHangout(ビデオチャット)で会談したのだ。もちろん、2人がこっそりやったわけじゃない。それはYouTubeで中継され、世界中の人間が目にすることとなった。
僕も見ていた。正直いって、YouTubeでの中継ということなら、別に何ら新しいものはない。だが、これはGoogle+のビデオチャットっで行われているのだ。そしてそれを僕らが眺めているのだ。実際にダライ・ラマの顔が映し出されると、けっこうどきどきした。そしてそれは実際に始まった。……本当にやってるよ! 頭の中で叫んだぜオレは。
途中で画像は止まるし、音は途切れるし、決していい放送じゃなかった。だが、いいんだ。これは、最初の一歩なんだから。なにか変わるかも知れないという期待を抱かせてくれただけで十分目的は果たせたんだ。
Twitterには有名人が大勢いて、世界中にフォロワーがいる。Facebookもファンページを作り、有名人がページを持つようになった。が、Google+には、そうしたファンページの機能もない。初めてアカウントをとったとき、「こんな人達をフォローしてみよう」と有名人が紹介されるけど、IT関係は豊富だがそうでない文化人はあまり多くないし、正直、こうした点においてはGoogle+はまだまだだと思っていた。もっと世界の著名人を引き入れてフォローできるようにしなきゃアカウントは増えないぞ、そう思っていた。
ところが、奴らはとんでもない人間を連れてきてしまった。ダライ・ラマとツツ大司教。一体全体、誰が「Google+でダライ・ラマのコメントをフォローできる」時代がやってくるなんて想像したろうか。これにはザッカーバーグもひっくり返ったろう。Google+は、まったく違うところを見ていたのだ。
時として僕らは、知らずに物事を人気投票で決めてしまっている所がある。iPhoneはauとSBとどっちがいいか。どっちが安いか、どっちがどれだけ早いか。Facebookにはどんな有名人がいるのか、Google+はどうなのか。そうやって「数」とか「人気」とか「値段」とか、そういったわかりやすい、ものすごく下世話な一つの基準で物事の善し悪しを判断してしまう。
だが、それがすべてなわけじゃない。世の中にはさまざまな物差しがある。どの物差しを使うかによって物事の見方はまるっきり変わる。
Google+はFacebookに勝つか。――そもそも「勝つ」って何だ? どっちの利用者が多いか、どっちの収益が上か、そんなもので僕らは両者の勝ち負けをはかろうとしていたんじゃないか。だが、そもそも両者は目的も目指すものも違うはずだ。そこのところを僕らは考えていたろうか。
「Google+の目指すところは、IT技術による世界平和の実現です」
――もし、こんなことをラリー・ページがいったりしてたら、「なんだこの大法螺吹きは」と誰しも思ったに違いない。だが、今日、お二方のライブチャットを見ていて、ひょっとしたらGoogleの連中は、そういうことを本気で考えていたりするのかも知れないな、と思ってしまった。うん、ありえないよそんなのは。どこの世界に「会社の営業目標は世界平和の実現」なんてところがある? 逆ならわかる。「世界征服」ならあってもいい。
だが、Googleは世界を等しくつなぐことで、どのような権力も奪うことのできない力を世界中の人々に与えつつある。「アラブの春」はその象徴だろう。世界中の、権力で国民を押さえつけているところは、みんななんとかしてインターネットから庶民を切り離そうと躍起になっている。
インターネットというものを世界の人々を救う武器に。それはありえない話ではないのかも知れない。中国の若者がGoogle+でダライ・ラマをフォローできる時代が来たりしたら、これは、ものすごいことじゃないだろうか。国家や政府を人は超えることができるとしたら。
僕は今、密かに期待していることがある。まぁ、絶対に有り得ないだろうけど。もし、もしもだよ。Google+に、ローマ法王がアカウントを取得したら……。イスラム、仏教、世界の主な宗教、宗派の指導者がGoogle+のアカウントを取り、お互いにHangoutし話したりできる時代がやってきたら。世界の主要国の指導者が、世界中の人々が見ている中、ビデオチャットで会議できたら。お互いの発言を共有し合い、コメントし合う、それを世界中の人間がフォローできるとしたら。なにか、世界は変わるんじゃないか、良い方向へと歩み始めるんじゃないか……という期待を抱けないか? もちろん何も変わらないかも知れない、だけど何か可能性を感じないか?
僕のサークルの中には、ダライ・ラマとツツ大司教がいる。特にツツ大司教はなかなか気に入ったようで、既にいくつも投稿をしている。こんな人物をフォローできる時代が来るとは思わなかった。本当に。そして彼らも、何のメディアも通さず、直接に世界に向けて発信できる窓口をこんなに簡単に持てるとは思わなかったんじゃないだろうか。彼らはいつでも自分の思いを発信できる。一言書けば、おそらくは何万何十万といるフォロワーによって数十分で世界中に広まることだろう。ジョブスが亡くなったときのGoogle+のストリームを僕はよく覚えている。わずか数分の間に、僕のストリームはジョブス一色となった。どこかでその発表があって5分後にはGoogle+にアクセスしていた世界中の人間がそのことを知っていた。この力を、知恵以外に何の力も持たない賢者が使えるとしたら、それは大きな武器となる。
今日、Google+は、大きな一歩を踏み出した。そう思う。Facebook? 小さい小さい。そんなちっぽけなソーシャルネットワークの雄なんて目指してないぜ。Google+が目指すのは「世界平和」だ。どうだ、TwitterにFacebook。ついてこれまい。そうほくそ笑んでるラリー・ページの顔が目に浮かばないか? 数で勝つんじゃない。その技術が世界に暮らす末端の人々をも幸せにできるか?だ。もし本当にそれができたら、その技術こそ本物だ。
僕も見ていた。正直いって、YouTubeでの中継ということなら、別に何ら新しいものはない。だが、これはGoogle+のビデオチャットっで行われているのだ。そしてそれを僕らが眺めているのだ。実際にダライ・ラマの顔が映し出されると、けっこうどきどきした。そしてそれは実際に始まった。……本当にやってるよ! 頭の中で叫んだぜオレは。
途中で画像は止まるし、音は途切れるし、決していい放送じゃなかった。だが、いいんだ。これは、最初の一歩なんだから。なにか変わるかも知れないという期待を抱かせてくれただけで十分目的は果たせたんだ。
Twitterには有名人が大勢いて、世界中にフォロワーがいる。Facebookもファンページを作り、有名人がページを持つようになった。が、Google+には、そうしたファンページの機能もない。初めてアカウントをとったとき、「こんな人達をフォローしてみよう」と有名人が紹介されるけど、IT関係は豊富だがそうでない文化人はあまり多くないし、正直、こうした点においてはGoogle+はまだまだだと思っていた。もっと世界の著名人を引き入れてフォローできるようにしなきゃアカウントは増えないぞ、そう思っていた。
ところが、奴らはとんでもない人間を連れてきてしまった。ダライ・ラマとツツ大司教。一体全体、誰が「Google+でダライ・ラマのコメントをフォローできる」時代がやってくるなんて想像したろうか。これにはザッカーバーグもひっくり返ったろう。Google+は、まったく違うところを見ていたのだ。
時として僕らは、知らずに物事を人気投票で決めてしまっている所がある。iPhoneはauとSBとどっちがいいか。どっちが安いか、どっちがどれだけ早いか。Facebookにはどんな有名人がいるのか、Google+はどうなのか。そうやって「数」とか「人気」とか「値段」とか、そういったわかりやすい、ものすごく下世話な一つの基準で物事の善し悪しを判断してしまう。
だが、それがすべてなわけじゃない。世の中にはさまざまな物差しがある。どの物差しを使うかによって物事の見方はまるっきり変わる。
Google+はFacebookに勝つか。――そもそも「勝つ」って何だ? どっちの利用者が多いか、どっちの収益が上か、そんなもので僕らは両者の勝ち負けをはかろうとしていたんじゃないか。だが、そもそも両者は目的も目指すものも違うはずだ。そこのところを僕らは考えていたろうか。
「Google+の目指すところは、IT技術による世界平和の実現です」
――もし、こんなことをラリー・ページがいったりしてたら、「なんだこの大法螺吹きは」と誰しも思ったに違いない。だが、今日、お二方のライブチャットを見ていて、ひょっとしたらGoogleの連中は、そういうことを本気で考えていたりするのかも知れないな、と思ってしまった。うん、ありえないよそんなのは。どこの世界に「会社の営業目標は世界平和の実現」なんてところがある? 逆ならわかる。「世界征服」ならあってもいい。
だが、Googleは世界を等しくつなぐことで、どのような権力も奪うことのできない力を世界中の人々に与えつつある。「アラブの春」はその象徴だろう。世界中の、権力で国民を押さえつけているところは、みんななんとかしてインターネットから庶民を切り離そうと躍起になっている。
インターネットというものを世界の人々を救う武器に。それはありえない話ではないのかも知れない。中国の若者がGoogle+でダライ・ラマをフォローできる時代が来たりしたら、これは、ものすごいことじゃないだろうか。国家や政府を人は超えることができるとしたら。
僕は今、密かに期待していることがある。まぁ、絶対に有り得ないだろうけど。もし、もしもだよ。Google+に、ローマ法王がアカウントを取得したら……。イスラム、仏教、世界の主な宗教、宗派の指導者がGoogle+のアカウントを取り、お互いにHangoutし話したりできる時代がやってきたら。世界の主要国の指導者が、世界中の人々が見ている中、ビデオチャットで会議できたら。お互いの発言を共有し合い、コメントし合う、それを世界中の人間がフォローできるとしたら。なにか、世界は変わるんじゃないか、良い方向へと歩み始めるんじゃないか……という期待を抱けないか? もちろん何も変わらないかも知れない、だけど何か可能性を感じないか?
僕のサークルの中には、ダライ・ラマとツツ大司教がいる。特にツツ大司教はなかなか気に入ったようで、既にいくつも投稿をしている。こんな人物をフォローできる時代が来るとは思わなかった。本当に。そして彼らも、何のメディアも通さず、直接に世界に向けて発信できる窓口をこんなに簡単に持てるとは思わなかったんじゃないだろうか。彼らはいつでも自分の思いを発信できる。一言書けば、おそらくは何万何十万といるフォロワーによって数十分で世界中に広まることだろう。ジョブスが亡くなったときのGoogle+のストリームを僕はよく覚えている。わずか数分の間に、僕のストリームはジョブス一色となった。どこかでその発表があって5分後にはGoogle+にアクセスしていた世界中の人間がそのことを知っていた。この力を、知恵以外に何の力も持たない賢者が使えるとしたら、それは大きな武器となる。
今日、Google+は、大きな一歩を踏み出した。そう思う。Facebook? 小さい小さい。そんなちっぽけなソーシャルネットワークの雄なんて目指してないぜ。Google+が目指すのは「世界平和」だ。どうだ、TwitterにFacebook。ついてこれまい。そうほくそ笑んでるラリー・ページの顔が目に浮かばないか? 数で勝つんじゃない。その技術が世界に暮らす末端の人々をも幸せにできるか?だ。もし本当にそれができたら、その技術こそ本物だ。
2011年10月10日
そんなにジョブスは偉かったのか?
どうにもこの数日、あっちでもこっちでもジョブスに関する記事ばかりで、至極居心地の悪い思いをしてきた。それについて書く。
ジョブスがなくなったのを知ったのは、Google+のストリームだった。朝起きて、ニュースだのをチェックした後、なんとな~くGoogle+のストリームを開いたままつらつらと昨日書いた原稿の整理なんぞをしていた。すると突然、ストリームから猛烈な勢いでジョブスの写真が流れ始めた。次から次へと。一体、何が起こったんだ?と思ってリンクされた記事を見て絶句した。まさか、ジョブスが死ぬとは。彼のことだから、闘病に専念して1年もすればまた帰ってくると思っていた。そういう人間だと信じて疑わないところがあった。こんな想定外の結末が用意されていようとは。
当日、やはり僕は僕なりにショックだったのだろうと思う。Google+の投稿もあまりなく、あっても精彩を欠いていたようだ。どこかしら、ふつりと糸が切れたようなところがあった。――が、それから数日の、メディアの騒動からすれば、その当日はまだしも静かなものだった気がする。
日を追うに連れ、メジャーなメディアまでがジョブスの追悼記事をどしどし出し始めた。そうやってジョブスのイメージが異様なまでに高められていく姿が、なんとも気持ちが悪かった。ジョブスは、神になろうとしている。現代のカリスマ、真の改革者、天才、ヒーロー、不世出の経営者、世界を変えた男。中には、レオナルドダビンチと並び称せられる存在とコメントしたところもあった。
違う。僕の中のジョブスはそんなご大層な人物じゃなかった。僕の中のジョブスの一番的確なイメージを一言で表すなら……「詐欺師」。これだろう。天才的な詐欺師。世界中の人間を騙して金を巻き上げることに成功した男。そういう印象だった。いっとくが、これは褒め言葉だ。口先だけでこれだけの人間を信じこませることなど、並大抵の人間にはできない。
ジョブスが作った製品は、ジョブスが作ったわけではない。中身を設計した人間、プログラムを組んだ人間、デザインをした人間、宣伝をした人間、部品の調達をし、組み立てた人間、みんな別人だ。ジョブスはそれらをまとめあげ、完成したパッケージとして製品化し、世界中に売り込んだ。「それがすごいんだ、それはカリスマ性のある人間でなければできないことだ」というのはわかる。わかるんだが、何か、どこか違う。
例えば、とてもわかりやすいものとして、apple ][を考えよう。apple ][は、アップルコンピュータの最初の製品で、世界的にヒットした初めてのコンピュータだ。これは、もう一人のスティーブであるウォズニアックという天才的ハードウェアハッカーが設計し、創り上げた。だが、それをキットではなく(当時、パソコンはみんなキットで、自分で組み立てるものだった)美しいフォルムの筐体にまとめあげ、虹色の林檎マークを付けて、世界で初めて「誰もが自分の机に置いてみたいと思わせるコンピュータ」に仕立て上げたのはジョブスだ。ジョブスがいなかったら、apple ][はあそこまでヒットはしなかっただろう。ジョブスが世界を変えたのだ。
……そうか? では、ウォズニアックがいなくて、別の人間が設計したコンピュータでも、ジョブスがそれをパッケージングし売ればapple ][になったのか? いいや。断言してもいい、apple ][は、ウォズが作ったからこそ成功したのだ。あれは、彼のマシンだ。彼の信じられないほどにシンプルなハードウェア設計、極限まで切り詰めたソフトウェア、芸術的なまでに洗練された技術があったからこそ、apple ][というマシンに我々は魅了されたのだ。apple ][の9割はウォズの功績だ。
Macはどうだ? ジョブス以外の人間が別の人間であっても成功したか? いいや。ビル・アトキンソンによる脅威のビットマップスクリーンシステム、アンディ・ハーツフェルドによるインターフェイスなどがなければ、Macは決して成功しなかった。Macの功績は半分以上がジョブス以外の人に帰するものだ。
すべては、そうだ。それは、「チームの仕事」だ。すばらしい仕事をする人々が集い、すばらしい製品が誕生した。ジョブスは、その基本的な設計思想を提示し、全体を統括し、完成した形にまとめ上げ、それをカリスマ的なプレゼンで世界にアピールした。それが、ジョブスの担当の仕事だった。それぞれがベストを尽くしたから素晴らしい製品が生まれた。ジョブスが天才だったから生まれたんだ、そうでなければありえなかった? その通り。そして、ジョブス以外の人間が凡才だったとしてもありえなかったろう。それらの製品は、ジョブスのものではない。チームの成果であり、チームのものだ。ジョブス一人が功績を独り占めにするものではない。
ジョブスにはカリスマ性がある。人を引きつけ、魅了する力がある。だから多くの人はジョブスを天才といい、功績を称える。それに異存はないし、僕だって彼は天才だと思う。だが、そのすごさを強調するあまり、彼以外の人間の功績がすべて彼の影に隠れ消えてしまうのは正しいことだろうか。
どうも僕の中で、何かを指導する立場の人間、上に立つ人間が高く評価されると、反射的に「違う!」と思ってしまうところがある。トップに立ち、大勢が集まったきらびやかな席で完成した製品を発表する人間と、中国の工場で朝から晩まで非人間的なまでの労働を強いられる人間と、果たしてどちらが本当に立派な仕事をなしたといえるのか、と本気で考えてしまうところがある。そこで無条件に「下っ端の人間が一日働いたって何も世の中に影響なんて与えられない。それに変わりはいくらでもいる。トップの人間がすぐれていなけりゃモノは売れない。トップが偉いに決まってるだろ」と割りきって考えられないところがある。
彼は、世界を変えたという。彼の作った製品は、生活を変え、世界を変えたという。そうなのか? 僕はipodもiphoneも使っていない(持ってはいるけど)。Macはあるが普段はWindowsマシンだ。僕の世界は、アップル製品によって変わったわけではない。Macが世界を変えたといっても、世界の9割はWindowsマシンだ。iPhoneが世界を変えたといっても、それより広く使われているのはAndroidだ。MacがあったからこそWindowsも生まれた? iPhoneができたからこそAndroidも作られた? では、MacがなければWindowsはなかったか。iPhoneがなければAndroidはなかったか。否。今のこの世界は、おそらくはジョブスが、そしてアップルという会社がなくとも到来したはずだ。アップルの代りは無数にあった。apple ][より、Macより、iPhoneよりすぐれたものはあった。それらは成功しなかっただけだ。
たかだか1つのモノや一人の人間が世界を変えることなどない。僕はそう思っている。世界を変えるのは、常に名もなき民だ。一人の権威者権力者ができるのは、ただ世界の時計の針を進めたり遅らせたりすることに過ぎない。たとえその人物がいなかったとしても、それより多少時間はかかっても世界は必ず同じ場所までたどり着く。ジョブスがいなくても、ジョブスが「変えた」といわれるこの世界に必ずいつかはたどり着いた。彼は、少しだけ先にそれを予感し、提示することができた。彼が「変えた」のではない、変わる時期を多少早めただけだ。
確かに、彼にはカリスマ性があった。みんなが魅了された。だが、それは彼が「多くの人々に高く評価されやすいタイプの人間」だった、ということでもある。古代ローマの時代、共和制から帝政に移行する土台を作り、以後のローマ帝国の基礎を作ったのはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)だった。彼は溢れる才能があり、誰もが熱狂的に彼を支持した。だが、本当の意味でローマの繁栄の基礎を築いたのは、彼の後を継いだアウグストゥス(オクタビアヌス)だった。華々しい戦果もなく、凛々しい横顔もたくましい肉体も持っていなかったが、彼は生涯をかけ目に見えない細かな仕事を積み重ね、ローマ繁栄の基礎を築いた。どちらが優れているか、どちらが立派かなど無意味だ。ローマの繁栄にはこの両者が必要であり、どちらが欠けても不可能だった。
僕は、彼のことを貶めようとしているんじゃない。ただ、「神格化すべきでない」といっているだけだ。ジョブスは、カエサルなのだ。彼に多くの人は魅了される。だがその一方で、本当の意味で製品を支える仕事を地道に着実にこなしていった無数のアウグストゥスがいる。その功績を、一人カエサルのみに帰するべきではない。ジョブスを高く評価するあまり、彼の影に隠れた人々の存在を軽んずることがあってはならない。
……それに。
今、ジョブスを賛美する人間というのは、世界の中のごくわずかでしかない。世界の大多数は、ジョブスやアップルやiPhoneとは無縁の世界にいる。ジョブスの功績を称える人々は、皆、世界の中で「もっとも豊かな1割」に含まれる人間ばかりだ。電気もなく水もない、明日食べるものをいかにして確保するか、そんな地で、iPhoneは何も世界を変えることなどできない。ジョブスと彼の生み出した製品は、世界中の貧しい人々の犠牲の上に作られている。僕らの豊かな生活は、大勢の奴隷によって支えられている。
彼は世界を変えたという。その「世界」には、僕らの生活を支える50億の見えない奴隷たちは含まれているだろうか。iPhoneは、彼らの暮らしなど何一つ変えられない。そんなものが、「今世紀最大の発明品」? 何をバカな。世界中で苦しむ人々を救いもせず、更なる労働を強いて生み出された、富める1割のためだけの製品が世紀の発明? 勘弁してくれ。
また、iPhoneを手にする豊かな人間たちも、それによって幸せになったのだろうか。生活は変わった、より便利になり、快適になった。だが、幸せにはなったろうか? MacとiPhoneとiPadに囲まれ一日中世界とつながっていないと気が済まない現代人よりも、16世紀の暮らしをかたくなに守り続ける、電気も車もないアーミッシュのほうが幸せに見えるのはなぜだ? 技術は、果たして本当に人を幸せにできているだろうか。新しい技術が「世紀の大発明」といってよいのは、この一点、「その技術によって、世界中の末端に暮らす人々までをもが確実に幸せになれる」という条件をみたすべきではないのか?
MacもiPhoneもiPadも、素晴らしい。だがそれは「限定付き」の素晴らしさだ。それらの素晴らしさを享受するには条件がある。豊かであること。インターネットに何の政治的妨害もなく接続できること。そうしたことのできる、世界のほんの一握りの人間だけがそれを享受できる。例えば、百福氏が発明したインスタントラーメンは、世界中の飢えに苦しむ人々を救った。「世紀の発明」にiPhoneとインスタントラーメンとどちらを選ぶかと問われれば、僕はためらいなくインスタントラーメンを選ぶ。iPhoneがなくとも誰も死なないが、インスタントラーメンがなければ無数の人命が失われる。世の中には世界中の人々を救う技術や製品がある。その多くは、カリスマ的な指導者ももたず、人々に知られることもない。だが断言してもいい、それらはiPhoneよりはるかにこの世の中に必要なものだ。ジョブスを祭り上げるあまり、彼が宣伝した製品までをも何でもかんでも「世紀の大発明品」に仕立て上げてはならない。
彼を祭りあげるのは、よそう。彼は優れた人間だったが、神ではない。預言者ではあったが、イエスではなかった。それを後の十二使徒たちがよってたかって彼を神に祭りあげることが正しいとは思えない。もうこのへんにしよう。彼は存分に生きた。彼への弔辞は、それで十分だ。
ジョブスがなくなったのを知ったのは、Google+のストリームだった。朝起きて、ニュースだのをチェックした後、なんとな~くGoogle+のストリームを開いたままつらつらと昨日書いた原稿の整理なんぞをしていた。すると突然、ストリームから猛烈な勢いでジョブスの写真が流れ始めた。次から次へと。一体、何が起こったんだ?と思ってリンクされた記事を見て絶句した。まさか、ジョブスが死ぬとは。彼のことだから、闘病に専念して1年もすればまた帰ってくると思っていた。そういう人間だと信じて疑わないところがあった。こんな想定外の結末が用意されていようとは。
当日、やはり僕は僕なりにショックだったのだろうと思う。Google+の投稿もあまりなく、あっても精彩を欠いていたようだ。どこかしら、ふつりと糸が切れたようなところがあった。――が、それから数日の、メディアの騒動からすれば、その当日はまだしも静かなものだった気がする。
日を追うに連れ、メジャーなメディアまでがジョブスの追悼記事をどしどし出し始めた。そうやってジョブスのイメージが異様なまでに高められていく姿が、なんとも気持ちが悪かった。ジョブスは、神になろうとしている。現代のカリスマ、真の改革者、天才、ヒーロー、不世出の経営者、世界を変えた男。中には、レオナルドダビンチと並び称せられる存在とコメントしたところもあった。
違う。僕の中のジョブスはそんなご大層な人物じゃなかった。僕の中のジョブスの一番的確なイメージを一言で表すなら……「詐欺師」。これだろう。天才的な詐欺師。世界中の人間を騙して金を巻き上げることに成功した男。そういう印象だった。いっとくが、これは褒め言葉だ。口先だけでこれだけの人間を信じこませることなど、並大抵の人間にはできない。
ジョブスが作った製品は、ジョブスが作ったわけではない。中身を設計した人間、プログラムを組んだ人間、デザインをした人間、宣伝をした人間、部品の調達をし、組み立てた人間、みんな別人だ。ジョブスはそれらをまとめあげ、完成したパッケージとして製品化し、世界中に売り込んだ。「それがすごいんだ、それはカリスマ性のある人間でなければできないことだ」というのはわかる。わかるんだが、何か、どこか違う。
例えば、とてもわかりやすいものとして、apple ][を考えよう。apple ][は、アップルコンピュータの最初の製品で、世界的にヒットした初めてのコンピュータだ。これは、もう一人のスティーブであるウォズニアックという天才的ハードウェアハッカーが設計し、創り上げた。だが、それをキットではなく(当時、パソコンはみんなキットで、自分で組み立てるものだった)美しいフォルムの筐体にまとめあげ、虹色の林檎マークを付けて、世界で初めて「誰もが自分の机に置いてみたいと思わせるコンピュータ」に仕立て上げたのはジョブスだ。ジョブスがいなかったら、apple ][はあそこまでヒットはしなかっただろう。ジョブスが世界を変えたのだ。
……そうか? では、ウォズニアックがいなくて、別の人間が設計したコンピュータでも、ジョブスがそれをパッケージングし売ればapple ][になったのか? いいや。断言してもいい、apple ][は、ウォズが作ったからこそ成功したのだ。あれは、彼のマシンだ。彼の信じられないほどにシンプルなハードウェア設計、極限まで切り詰めたソフトウェア、芸術的なまでに洗練された技術があったからこそ、apple ][というマシンに我々は魅了されたのだ。apple ][の9割はウォズの功績だ。
Macはどうだ? ジョブス以外の人間が別の人間であっても成功したか? いいや。ビル・アトキンソンによる脅威のビットマップスクリーンシステム、アンディ・ハーツフェルドによるインターフェイスなどがなければ、Macは決して成功しなかった。Macの功績は半分以上がジョブス以外の人に帰するものだ。
すべては、そうだ。それは、「チームの仕事」だ。すばらしい仕事をする人々が集い、すばらしい製品が誕生した。ジョブスは、その基本的な設計思想を提示し、全体を統括し、完成した形にまとめ上げ、それをカリスマ的なプレゼンで世界にアピールした。それが、ジョブスの担当の仕事だった。それぞれがベストを尽くしたから素晴らしい製品が生まれた。ジョブスが天才だったから生まれたんだ、そうでなければありえなかった? その通り。そして、ジョブス以外の人間が凡才だったとしてもありえなかったろう。それらの製品は、ジョブスのものではない。チームの成果であり、チームのものだ。ジョブス一人が功績を独り占めにするものではない。
ジョブスにはカリスマ性がある。人を引きつけ、魅了する力がある。だから多くの人はジョブスを天才といい、功績を称える。それに異存はないし、僕だって彼は天才だと思う。だが、そのすごさを強調するあまり、彼以外の人間の功績がすべて彼の影に隠れ消えてしまうのは正しいことだろうか。
どうも僕の中で、何かを指導する立場の人間、上に立つ人間が高く評価されると、反射的に「違う!」と思ってしまうところがある。トップに立ち、大勢が集まったきらびやかな席で完成した製品を発表する人間と、中国の工場で朝から晩まで非人間的なまでの労働を強いられる人間と、果たしてどちらが本当に立派な仕事をなしたといえるのか、と本気で考えてしまうところがある。そこで無条件に「下っ端の人間が一日働いたって何も世の中に影響なんて与えられない。それに変わりはいくらでもいる。トップの人間がすぐれていなけりゃモノは売れない。トップが偉いに決まってるだろ」と割りきって考えられないところがある。
彼は、世界を変えたという。彼の作った製品は、生活を変え、世界を変えたという。そうなのか? 僕はipodもiphoneも使っていない(持ってはいるけど)。Macはあるが普段はWindowsマシンだ。僕の世界は、アップル製品によって変わったわけではない。Macが世界を変えたといっても、世界の9割はWindowsマシンだ。iPhoneが世界を変えたといっても、それより広く使われているのはAndroidだ。MacがあったからこそWindowsも生まれた? iPhoneができたからこそAndroidも作られた? では、MacがなければWindowsはなかったか。iPhoneがなければAndroidはなかったか。否。今のこの世界は、おそらくはジョブスが、そしてアップルという会社がなくとも到来したはずだ。アップルの代りは無数にあった。apple ][より、Macより、iPhoneよりすぐれたものはあった。それらは成功しなかっただけだ。
たかだか1つのモノや一人の人間が世界を変えることなどない。僕はそう思っている。世界を変えるのは、常に名もなき民だ。一人の権威者権力者ができるのは、ただ世界の時計の針を進めたり遅らせたりすることに過ぎない。たとえその人物がいなかったとしても、それより多少時間はかかっても世界は必ず同じ場所までたどり着く。ジョブスがいなくても、ジョブスが「変えた」といわれるこの世界に必ずいつかはたどり着いた。彼は、少しだけ先にそれを予感し、提示することができた。彼が「変えた」のではない、変わる時期を多少早めただけだ。
確かに、彼にはカリスマ性があった。みんなが魅了された。だが、それは彼が「多くの人々に高く評価されやすいタイプの人間」だった、ということでもある。古代ローマの時代、共和制から帝政に移行する土台を作り、以後のローマ帝国の基礎を作ったのはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)だった。彼は溢れる才能があり、誰もが熱狂的に彼を支持した。だが、本当の意味でローマの繁栄の基礎を築いたのは、彼の後を継いだアウグストゥス(オクタビアヌス)だった。華々しい戦果もなく、凛々しい横顔もたくましい肉体も持っていなかったが、彼は生涯をかけ目に見えない細かな仕事を積み重ね、ローマ繁栄の基礎を築いた。どちらが優れているか、どちらが立派かなど無意味だ。ローマの繁栄にはこの両者が必要であり、どちらが欠けても不可能だった。
僕は、彼のことを貶めようとしているんじゃない。ただ、「神格化すべきでない」といっているだけだ。ジョブスは、カエサルなのだ。彼に多くの人は魅了される。だがその一方で、本当の意味で製品を支える仕事を地道に着実にこなしていった無数のアウグストゥスがいる。その功績を、一人カエサルのみに帰するべきではない。ジョブスを高く評価するあまり、彼の影に隠れた人々の存在を軽んずることがあってはならない。
……それに。
今、ジョブスを賛美する人間というのは、世界の中のごくわずかでしかない。世界の大多数は、ジョブスやアップルやiPhoneとは無縁の世界にいる。ジョブスの功績を称える人々は、皆、世界の中で「もっとも豊かな1割」に含まれる人間ばかりだ。電気もなく水もない、明日食べるものをいかにして確保するか、そんな地で、iPhoneは何も世界を変えることなどできない。ジョブスと彼の生み出した製品は、世界中の貧しい人々の犠牲の上に作られている。僕らの豊かな生活は、大勢の奴隷によって支えられている。
彼は世界を変えたという。その「世界」には、僕らの生活を支える50億の見えない奴隷たちは含まれているだろうか。iPhoneは、彼らの暮らしなど何一つ変えられない。そんなものが、「今世紀最大の発明品」? 何をバカな。世界中で苦しむ人々を救いもせず、更なる労働を強いて生み出された、富める1割のためだけの製品が世紀の発明? 勘弁してくれ。
また、iPhoneを手にする豊かな人間たちも、それによって幸せになったのだろうか。生活は変わった、より便利になり、快適になった。だが、幸せにはなったろうか? MacとiPhoneとiPadに囲まれ一日中世界とつながっていないと気が済まない現代人よりも、16世紀の暮らしをかたくなに守り続ける、電気も車もないアーミッシュのほうが幸せに見えるのはなぜだ? 技術は、果たして本当に人を幸せにできているだろうか。新しい技術が「世紀の大発明」といってよいのは、この一点、「その技術によって、世界中の末端に暮らす人々までをもが確実に幸せになれる」という条件をみたすべきではないのか?
MacもiPhoneもiPadも、素晴らしい。だがそれは「限定付き」の素晴らしさだ。それらの素晴らしさを享受するには条件がある。豊かであること。インターネットに何の政治的妨害もなく接続できること。そうしたことのできる、世界のほんの一握りの人間だけがそれを享受できる。例えば、百福氏が発明したインスタントラーメンは、世界中の飢えに苦しむ人々を救った。「世紀の発明」にiPhoneとインスタントラーメンとどちらを選ぶかと問われれば、僕はためらいなくインスタントラーメンを選ぶ。iPhoneがなくとも誰も死なないが、インスタントラーメンがなければ無数の人命が失われる。世の中には世界中の人々を救う技術や製品がある。その多くは、カリスマ的な指導者ももたず、人々に知られることもない。だが断言してもいい、それらはiPhoneよりはるかにこの世の中に必要なものだ。ジョブスを祭り上げるあまり、彼が宣伝した製品までをも何でもかんでも「世紀の大発明品」に仕立て上げてはならない。
彼を祭りあげるのは、よそう。彼は優れた人間だったが、神ではない。預言者ではあったが、イエスではなかった。それを後の十二使徒たちがよってたかって彼を神に祭りあげることが正しいとは思えない。もうこのへんにしよう。彼は存分に生きた。彼への弔辞は、それで十分だ。
2011年10月2日
Google+の「ユルイつながり」は世界を変える!……かも
Google Plus。この週末の数日間、完璧にこいつにとりこまれていた。たかだかネットの一サービスにここまではまり込んだのは久しぶりだ。世間ではFacebookの大改革があちこちで話題となっているけど、僕にとっては話題の中心はGoogle+だ。
何がそんなにGoogle+へと夢中にさせたのか。――そもそもの発端はGoogleが「サークル」を共有する機能を開始したところから始まる。Google+では、気に入った人を「サークル」というのに放り込んで、その人の投稿をフォローすることができる。これはFacebookの友達のように申請しないといけないものでなくて、こっちが一方的に入れてしまえるというものだ。Google+のストリームに流れる投稿を眺めて、「こいつ、面白いかも」と思ったらサークルに入れる、するとそいつの投稿がストリームに流れる、というわけ。
その、本来ならものすごく個人的なものであるサークルを投稿し、共有できる。このことの意味がわかったのは、実際に共有サークルを利用してからだ。その少し前からGoogle+ではゲームがスタートしていて、Facebookで人気のCityVilleも開始されていた。僕もちょこっとやってみたのだけど、なんだかよくわかんないしどうすっかな……という気分でいたのだ。
そこに、「CityVilleで遊ぶ人、集まれ」というサークルが流れてきたのだ。何の気なしにそれを自分のサークルに入れた途端、すべてが変わった。
流れてくる、流れてくる。英語、ロシア語、スペイン語、中国語、韓国語、アラビア語、なんだかわからない東欧の言語……。僕のストリームは、ものすごい勢いで流れ始めた。その流れは、僕を圧倒した。とりあえず、武器がいる。慌ててChromeストアに行き、Google+の投稿を翻訳するGoogle翻訳プラグインを投入。ワンクリックですべての投稿を日本語に翻訳できるようにする。すると、ものすごい勢いで流れるストリームから、世界中の人々の声が聞こえ始めた。
Facebookにもストリームはある。けれど基本は友達を申請して許可してもらって……という方式だから、つながるのは「友達の友達」といった安全確実な相手ばかりで、たいていは同じ日本人。新たにフォローをする機能も追加されたけれど、それとて「フォロー」であって、ただ一方的に相手の投稿を眺めるだけだ。Twitterでは、こちらがフォローしたい相手を追加していくことはできる。だけど、そうしてフォローされる人の大半は、「知人」か「有名人」だ。例えば、南米の地方都市に住むおじさんをフォローしよう、なんて普通思うかい?
Google+は、勝手に相手を自分のサークルに入れてフォローすることができる。ただ眺めるだけでなく、もちろんコメントを返すこともできるし、他のコメントをした人(自分とは縁もゆかりもない、その人のフォロワー)を勝手にサークルに入れることもできる。Twitterのように一方的にフォローできるが、それだけでなくその相手にコメントし、友達でもないのにやりとりできる。
またフォローした相手のプロフィールにはたいていその人のフォロー相手が表示され、そこから別の人のプロフィールに、更にまた別の人に……と、次々とつながりをたどっていくうちに、まったく見ず知らずの面白い人に行き着いてしまったりする。重要なのは、それらが皆、有名人でもなんでもない、ごく普通の人たち、ということだ。これは、そうだ昔やってたアマチュア無線に似ている。世界中の人とダイレクトにつながれる、そういう道具を、実に30年を経て再び手にしたのだ。
ストリームを読むのに疲れてゲームに移ると、またもやものすごいものが待っていた。何十件ものメッセージの山。世界中のどこの誰かも知らない人たちから「一緒にゲームで遊ぼうよ~」とコメントが届いていた。どうやら、あのCityVilleサークルの人たちだ(そこにはなんと250人も入ってた)。なんだかよくわからないうちに次々届くメッセージを処理していく内、ぼこぼことCityVilleに「お隣りさん」が増えてきた。どれもこれも日本人じゃない。ロシア人、中国人、米国人、たぶん、どっか東欧の人、世界中からお隣さんがやってきた。いい気になって僕も世界中のあちこちの街に出かけていった。
……こんなこと、一体誰が想像したろうか。世界の、まったく出会うはずのなかった人たちと意思疎通がはかれるなんて。Google翻訳で出てくる日本語はわかりにくいが、しかしだいたいの意味はわかる。面白い投稿には、こっちも簡単なコメントを翻訳して投げ返す。怒り狂ったりせず、サークルから外されているわけでもないところをみると、それなりに意味は通じているようだ。
そうやって、時には韓国語、ときにはロシア語、ある時はアラビア語で投稿した。向こうの知り合いから変な目で見られたこともあったようだけど、そうやってやり取りをしていくうちに、なんとなく確信が生まれたのだ。これはすごい。Google+は、世界を変えるかも知れない。そういう確信を。
Facebookは、ますます人をしばりつけ、そこからありとあらゆる個人情報を絞りとろうとしている。それは、ソーシャルの方向を考えれば、ある意味、当然行き着く方向だろう。この人間が何を考え、何に興味を持ち、何をしたのか。そうした情報の蓄積は、大きな力となる。
だが、ソーシャルネットのパワーは、そうした「一人ひとりのあらゆる個人情報を吸い取る」という方向にのみにあるのだろうか。それとは全く別の方向に、また新しい世界があるんじゃないか。
Google+の、この「ユルいつながり」は、ひょっとしたらものすごいパワーかも知れない。先日、とある人間の投稿が、別の人に共有され、共有され、更に共有され、僕のストリームまでたどり着いた。その人は、病気で全身のほとんどが動かない。だが世界とつながっていたい。誰でもいい、僕をサークルに入れてくれ。そういう投稿だった。
多くの人が彼をサークルに入れた。僕も入れた。Google+には、「サークル外から」という機能がある。これは、「自分はサークルに入れていないけど、自分をサークルに入れている人」の投稿をまとめて流すストリームだ。つまり、みんなが彼を勝手にサークルに入れれば、彼の「サークル外から」のストリームに、世界中のフォロワーの投稿が流れるのだ。そう、Google+のサークルは「一方的」なものと思われがちだが、この「サークル外から」により、実は双方向に機能するようにできているのだ。
彼は、そうやってたった1つ投稿をしただけで、その投稿を共有しフォローする世界中の人々の声をいながらにして聞くことができるようになる。彼は、世界とつながれるのだ。これは、Facebookではありえない。Twitterでもだ。自分で、フォローしたい相手を探し出し、それを自分のフォロワーに入れる。そういうことを自分の手で行わなければ、誰ともつながることはできない。だがGoogle+では、それが可能だった。
さまざまな人間が、さまざまな考え方、さまざまな意見を投稿する。めちゃ面白い写真や動画もあるし、どこの国かも定かでないニュース記事も流れてくる。真面目な主張、挨拶や叫び声。どれもこれも、大勢のフォロワーがいることを意識した著名人の計算しつくされた投稿ではない、ごく普通の人の、ごく普通の生活から生まれた声だ。
こうして、ごく当たり前の暮らしをする人々の声を聞くことが、世界をつなげていくことになるんじゃないだろうか。世界各地のさまざまな揉め事、紛争は、お互いの国の人々をお互いに直接知らないことから起こるんじゃないか。この世に、「国」という人間はいない。そこにはごく普通の人々が暮らしているのだ。そうした人々の声を直接聞くことができる。僕らが何を考えているかも直接伝えることができる。そうしてさまざまな国の、そこに存在し暮らしている、きちんとした名前のある人々と知り合うことで、その国に対する偏見や差別意識は薄まっていくんじゃないのか。
Google+は、世界中の人々を、ものすごくいい加減に結びつける。この「いい加減さ」こそが、大げさな話、世界平和には必要なのだ。といってみたりする。
既にmixiやFacebookやTwitterをやっていて、「これで十分だよ」と思っている人。あなたのフォローする人々から、知人友人、日本人、有名人をすべて除いてみてください。何人が残りますか? あなたと縁もゆかりもない、世界のどこかに暮らす人々が何人そこに残っていますか? インターネットという世界中の人々とつながることのできるツールを使っているのに、なんてもったいない。そう思わない?
何がそんなにGoogle+へと夢中にさせたのか。――そもそもの発端はGoogleが「サークル」を共有する機能を開始したところから始まる。Google+では、気に入った人を「サークル」というのに放り込んで、その人の投稿をフォローすることができる。これはFacebookの友達のように申請しないといけないものでなくて、こっちが一方的に入れてしまえるというものだ。Google+のストリームに流れる投稿を眺めて、「こいつ、面白いかも」と思ったらサークルに入れる、するとそいつの投稿がストリームに流れる、というわけ。
その、本来ならものすごく個人的なものであるサークルを投稿し、共有できる。このことの意味がわかったのは、実際に共有サークルを利用してからだ。その少し前からGoogle+ではゲームがスタートしていて、Facebookで人気のCityVilleも開始されていた。僕もちょこっとやってみたのだけど、なんだかよくわかんないしどうすっかな……という気分でいたのだ。
そこに、「CityVilleで遊ぶ人、集まれ」というサークルが流れてきたのだ。何の気なしにそれを自分のサークルに入れた途端、すべてが変わった。
流れてくる、流れてくる。英語、ロシア語、スペイン語、中国語、韓国語、アラビア語、なんだかわからない東欧の言語……。僕のストリームは、ものすごい勢いで流れ始めた。その流れは、僕を圧倒した。とりあえず、武器がいる。慌ててChromeストアに行き、Google+の投稿を翻訳するGoogle翻訳プラグインを投入。ワンクリックですべての投稿を日本語に翻訳できるようにする。すると、ものすごい勢いで流れるストリームから、世界中の人々の声が聞こえ始めた。
Facebookにもストリームはある。けれど基本は友達を申請して許可してもらって……という方式だから、つながるのは「友達の友達」といった安全確実な相手ばかりで、たいていは同じ日本人。新たにフォローをする機能も追加されたけれど、それとて「フォロー」であって、ただ一方的に相手の投稿を眺めるだけだ。Twitterでは、こちらがフォローしたい相手を追加していくことはできる。だけど、そうしてフォローされる人の大半は、「知人」か「有名人」だ。例えば、南米の地方都市に住むおじさんをフォローしよう、なんて普通思うかい?
Google+は、勝手に相手を自分のサークルに入れてフォローすることができる。ただ眺めるだけでなく、もちろんコメントを返すこともできるし、他のコメントをした人(自分とは縁もゆかりもない、その人のフォロワー)を勝手にサークルに入れることもできる。Twitterのように一方的にフォローできるが、それだけでなくその相手にコメントし、友達でもないのにやりとりできる。
またフォローした相手のプロフィールにはたいていその人のフォロー相手が表示され、そこから別の人のプロフィールに、更にまた別の人に……と、次々とつながりをたどっていくうちに、まったく見ず知らずの面白い人に行き着いてしまったりする。重要なのは、それらが皆、有名人でもなんでもない、ごく普通の人たち、ということだ。これは、そうだ昔やってたアマチュア無線に似ている。世界中の人とダイレクトにつながれる、そういう道具を、実に30年を経て再び手にしたのだ。
ストリームを読むのに疲れてゲームに移ると、またもやものすごいものが待っていた。何十件ものメッセージの山。世界中のどこの誰かも知らない人たちから「一緒にゲームで遊ぼうよ~」とコメントが届いていた。どうやら、あのCityVilleサークルの人たちだ(そこにはなんと250人も入ってた)。なんだかよくわからないうちに次々届くメッセージを処理していく内、ぼこぼことCityVilleに「お隣りさん」が増えてきた。どれもこれも日本人じゃない。ロシア人、中国人、米国人、たぶん、どっか東欧の人、世界中からお隣さんがやってきた。いい気になって僕も世界中のあちこちの街に出かけていった。
……こんなこと、一体誰が想像したろうか。世界の、まったく出会うはずのなかった人たちと意思疎通がはかれるなんて。Google翻訳で出てくる日本語はわかりにくいが、しかしだいたいの意味はわかる。面白い投稿には、こっちも簡単なコメントを翻訳して投げ返す。怒り狂ったりせず、サークルから外されているわけでもないところをみると、それなりに意味は通じているようだ。
そうやって、時には韓国語、ときにはロシア語、ある時はアラビア語で投稿した。向こうの知り合いから変な目で見られたこともあったようだけど、そうやってやり取りをしていくうちに、なんとなく確信が生まれたのだ。これはすごい。Google+は、世界を変えるかも知れない。そういう確信を。
Facebookは、ますます人をしばりつけ、そこからありとあらゆる個人情報を絞りとろうとしている。それは、ソーシャルの方向を考えれば、ある意味、当然行き着く方向だろう。この人間が何を考え、何に興味を持ち、何をしたのか。そうした情報の蓄積は、大きな力となる。
だが、ソーシャルネットのパワーは、そうした「一人ひとりのあらゆる個人情報を吸い取る」という方向にのみにあるのだろうか。それとは全く別の方向に、また新しい世界があるんじゃないか。
Google+の、この「ユルいつながり」は、ひょっとしたらものすごいパワーかも知れない。先日、とある人間の投稿が、別の人に共有され、共有され、更に共有され、僕のストリームまでたどり着いた。その人は、病気で全身のほとんどが動かない。だが世界とつながっていたい。誰でもいい、僕をサークルに入れてくれ。そういう投稿だった。
多くの人が彼をサークルに入れた。僕も入れた。Google+には、「サークル外から」という機能がある。これは、「自分はサークルに入れていないけど、自分をサークルに入れている人」の投稿をまとめて流すストリームだ。つまり、みんなが彼を勝手にサークルに入れれば、彼の「サークル外から」のストリームに、世界中のフォロワーの投稿が流れるのだ。そう、Google+のサークルは「一方的」なものと思われがちだが、この「サークル外から」により、実は双方向に機能するようにできているのだ。
彼は、そうやってたった1つ投稿をしただけで、その投稿を共有しフォローする世界中の人々の声をいながらにして聞くことができるようになる。彼は、世界とつながれるのだ。これは、Facebookではありえない。Twitterでもだ。自分で、フォローしたい相手を探し出し、それを自分のフォロワーに入れる。そういうことを自分の手で行わなければ、誰ともつながることはできない。だがGoogle+では、それが可能だった。
さまざまな人間が、さまざまな考え方、さまざまな意見を投稿する。めちゃ面白い写真や動画もあるし、どこの国かも定かでないニュース記事も流れてくる。真面目な主張、挨拶や叫び声。どれもこれも、大勢のフォロワーがいることを意識した著名人の計算しつくされた投稿ではない、ごく普通の人の、ごく普通の生活から生まれた声だ。
こうして、ごく当たり前の暮らしをする人々の声を聞くことが、世界をつなげていくことになるんじゃないだろうか。世界各地のさまざまな揉め事、紛争は、お互いの国の人々をお互いに直接知らないことから起こるんじゃないか。この世に、「国」という人間はいない。そこにはごく普通の人々が暮らしているのだ。そうした人々の声を直接聞くことができる。僕らが何を考えているかも直接伝えることができる。そうしてさまざまな国の、そこに存在し暮らしている、きちんとした名前のある人々と知り合うことで、その国に対する偏見や差別意識は薄まっていくんじゃないのか。
Google+は、世界中の人々を、ものすごくいい加減に結びつける。この「いい加減さ」こそが、大げさな話、世界平和には必要なのだ。といってみたりする。
既にmixiやFacebookやTwitterをやっていて、「これで十分だよ」と思っている人。あなたのフォローする人々から、知人友人、日本人、有名人をすべて除いてみてください。何人が残りますか? あなたと縁もゆかりもない、世界のどこかに暮らす人々が何人そこに残っていますか? インターネットという世界中の人々とつながることのできるツールを使っているのに、なんてもったいない。そう思わない?
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