……だからなのかな、僕はどうも最近、原発について「オレはこう思う」という確かな意見を持てないでいる。僕は、もともとは原発容認派だ。それは、「今の生活を保つには原発が必要だ」ということもあるし、「人間は、一度生み出した技術を『なかったもの』としてすませることはできない」ということからだ。
「今の生活を保つには原発がいる」ということになると、多くの人が「もっと節電すればいい、家電製品だってこんなにいらない。もっと不必要なものを整理し質素に暮らせば原発などなくてもなんとかなるはずだ」という。それは確かにそうだ。だがそれは「経済の縮小」を意味する、ということもわかっての発言なのだろうか。経済は、「輸送」と「エネルギー」で回っている。エネルギーを4割カットするということは、イコール経済活動を4割(まではいかないだろうが)縮小することを意味する。それは想像する以上に冷えた世界となるだろう。果たして本当にそれに僕らは耐えられるだろうか。
「太陽光・風力発電といった自然エネルギーによる発電に振り返ればいい」という意見も多い。孫さんが音頭を取る太陽光発電の普及などがそうだ。ただ、僕なりに調べた限りでは、どう試算しても、現時点での太陽光・風力発電はペイできない。現在の原発に変わる規模の太陽光発電を実現するとなると、どう計算しても軽く100兆を超えてしまうのだ。(オレの計算が間違っているのかなぁ?)
風力にしろ太陽光にしろ、どんなものであれそれを実現するためには設備への投資と永遠のメンテナンスが必要だ。現在、自然エネルギーの利用でもっとも先端を走っていると思われるドイツでさえ、FIT(全量買取制度)は巨額の赤字を生み出し大きな失敗となりつつあることは広く指摘されているところだ。また風力発電を中心にドイツ以上に自然エネルギー導入を推進するスペインでは急激な電気料金の高騰が問題化しつつあるという。(何しろ去年から今年にかけてでさえ3度、計17%以上も電気料金が値上げされているくらいだ)エネルギーコストの高騰は経済活動と産業に大きな影響をあたえることも忘れてはいけない。
かの孫さんが熱心に太陽光発電を推進する最大の理由は、ひょっとしてここにないだろうか。100兆円規模の新しい市場が目の前にぶら下がっていたら、経済人なら飛びつくだろう。しかも、それは「原子力は危険だ、自然エネルギーこそが環境にやさしく安心して使える」という誰もが反対できない錦の御旗のもとに推進できるのだ。これほどおいしい商売は滅多にない。
そしてコスト問題の他にもう一点、既に「原子力」というものを扱う知識と技術を手にしてしまった今、それを完全に封印できるほど人類は賢いのだろうか、という思いがどこかにある。短期的に見れば、可能だろう。だがその知識と、そして原子力が持つパワーを知っている人類が、それを永遠に葬り去ることができるとは僕には思えないのだ。
「そこまでいうなら、今も原発に賛成なんだな?」と言われそうだが、実はそういうわけでもない。少なくとも現時点での原子力には大きな問題があることもまた確かなのだから、諸手を上げて賛成とはいかない。だから、「わからない」としかいいようがない。優柔不断と言われようが、これが正直なところだ。明確な判断ができない状態であるにも関わらず、いたずらに「賛成!反対!」と叫ぶことは僕にはできない。
それ以上に、今、「原発反対」を叫ぶ人達を見るにつけ、「こいつらの仲間とだけは見られたくない」という思いが心のどっかにあるのも事実だ。人にはどうしても受け入れられるものと受け入れられないものがある。どれが正しいとかいうことでなくて、ただ「無理」なのだ。
○僕が受け入れられるもの
・原発が安全だと思われていた頃、「原発反対」を主張した人。
・原発が危険だと思われる今、「原発容認」を主張する人。
○僕が受け入れられないもの
・原発が安全だと思われていた頃、「原発推進」を主張した人。
・原発が危険だと思われる今、「原発反対」を主張する人。
今、原子力が悪者だ。だからそれを叩く人は注目される。自然エネルギーを持ち出せば明るい未来が待っているという幻想を抱かせることができる。だが、それは今から40年以上前、「原子力発電」が登場した頃と同じ構図ではないのか。であるならば、将来、太陽光や風力発電になにか致命的な問題が発覚したとき、今「自然エネルギー推進」を叫ぶ人たちの多くは、おそらく真っ先に「風力反対、太陽光反対」を唱えるのではないか。原子力推進の時代から一貫して主張し続けてきた人ならばわかる。だが「時代の流れに身を任せた結果、原発反対の場所にいる」という人と、僕は同じ場所に立ちたくはない。想像しただけで反吐が出る。まだしもそれよりは罵声を浴びせられながら「原発容認」の場所に立ち続けたほうが気分は楽だ。
「鉄腕アトム」がブラウン管の中を飛び回っていた頃、「原子力」は人類の夢だった。これだけの長い年月と、人類の知恵と勇気を持って創り上げてきた夢を、僕はそんなに簡単に葬り去りたくはない。確かに原子力は「問題児」となってしまった。だが、だからといってそれをさっさと捨てて次に進めば幸せになれるのか。僕にはどうしてもそうは思えないのだ。
だから、「わからない」。この場所に僕はもうしばらく立ち続ける。人々が示された方向へ走り去った後も。人間が創りだすものに「理想郷」などない。自然エネルギーが夢のような未来を語る限り、僕はそれを信じない。
もし、本当に自然エネルギーが優れたものであるなら、夢ではなく現実を語ってほしい。それがどれだけ高コストなエネルギーなのか。それが実は火力発電以上に環境を破壊するものであるか。それを推進した諸外国がどれだけ経済的に苦しめられているか。その現実を提示し、原子力の現実とつきあわせ「さあ検討しよう」となったとき、僕は初めてしっかりと考えるだろう。
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