神は細部に宿る

AIと人間が絵を描いているところをAIに描いてもらった。

気がついた人もいるかも知れないけど、最近、暇を見て過去の投稿にAIが描いたイメージを追加してる。ちょっとプロンプトを書くだけで適当なイラストを描いてくれる。めちゃ楽だ。

これをもう少し進めれば、「こういう記事を書いて」とAIに送れば適当にブログを書いてくれるようになるな。ていうか、既にそうやって書いてるブログやニュース記事がどんどん増えている。僕も試しにいくつか書いてみたけど、うん、多分ほとんどのオレの書いた記事よりクオリティ高いよな、と思えてしまうのだった。

そうして、きっと気がつけば、AIが適当に作ったコンテンツが身の回りを埋め尽くすようになっていくのだろう。それは悪いことではないと思う。

なぜ、今まで自分のブログにイラストをつけなかったか? といえば、「絵が描けないから」だ。適当なイラストをさらっと描く、ができない。絵心がない。だから諦めてた。AIだと、「こんな感じのもの」といえばそれっぽく描いてくれる。もう、これでいい。そう思う。

なら、ブログ記事だって同じだ。「文才がない、文章を書くのが苦手だ」という人にとって、「こういうことをいいたいんだけどうまく記事にして」と頼めばそれらしく書いてくれるAIは天の恵みだろう。それを否定することはないはずだ。


……じゃあ、なんでオレはまだ自分でブログを書いているんだろうか?


それは多分、AIが適当に書いた文章が、気に入らないからだ。

確かにAIはけっこうなクオリティの文章をささっと作ってくれる。だが、読むと違和感がある。「オレは、こんな書き方はしない」「この表現は微妙に違う」「こういう書き方はオレ的にキモチワルい」といったことのオンパレードで、結局、全部自分で書いたほうが早かったりするんだよな。

そう。「それが苦手な人」にとって、それを適当にやってくれるAIは素晴らしい。だが「それが得意な人」にとって、それを適当にやってくれるAIは「えらく腹立たしい」ものでしかないのだ。なぜなら、AIは「細かな機微」がわからないから。

「……です。」か、
「……だ。」か、
「……である。」か。

どんな文末でも間違いじゃないし意味も変わらない。だが、「いや、ここは『である』じゃなきゃダメだろ」ということが、ある。少なくとも僕には。それは多分、書いた本人にしかわからない、取るに足らない、くだらない、どうでもいい、つまらないこだわりに過ぎないのだろう。だが、その機微が、僕にはわかってしまう。なぜなら、もう30年以上モノを書き続けてきて、「オレなら必ずこう書くはずだ」ということがまるで生まれついての本能のように体に染みついているから。「オレがブログを書くなら、こんな書き方は絶対にしない」ということが一読してわかってしまうから。それを自分のブログに乗せることはできない。それを読んだ人間に「掌田がこれを書いたんだ」と思われてしまうことが我慢できない。

どうでもいいことだ、そんなことは。そう思える人間は、AIを活用すればいい。僕だって、絵に関しては、どんなこだわりも「そんなことどうでもいい」と思える。ブログに載せる絵に、こだわりなんてこれっぽっちもない。だからAIで全然構わない。

だが、プロの絵描きは絶対に我慢出来ないだろう。僕がAIの書く文章をどうしても我慢出来ないのと同じ理由で。

多分、自分や、自分と同じぐらいその世界に深く入り込んでいる人間でなければ、そのことはわからないのだ。ほとんどの「特にどうでもいい」と思う人々にとって、AIも人間の作ったものも同じだ。だが、その世界を深く深く知る人にとって、その違いは微細だが決定的に違うものなのだ。神は細部に宿る。


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