Twitterがキライだ!

今朝、起きてGoogleリーダーをチェックすると、WWDCの速報記事で埋め尽くされていた。さまざまな新発表があって、総じて「たいしたもんだ、なかなかなもんだ」と思う機能だったのだけど、ときどき、自分の中で「いらっ」と来るものにぶちあたる。これは、あらかじめいっておくけど、別にそれがダメだとかいうことではない。ただ、自分にとって「あわない」のだ。

例えば、Twitterとの連携強化。iPhoneやipadで、さまざまなアプリを使用中にTweetできる。実に自然にTwitterとアプリが融合している。その作り自体は実に良く出来ていると思う。だが、僕は、致命的にTwitterがキライなのだ。

更には、新しいメッセージング機能。iPhoneばかりかipod touchやipadでもメッセージのやりとりが出来るようになった。これは、パワフルで実にきれいにまとまった「SMS」だ。だが、僕は、致命的にSMSがキライなのだ。

ITの世界は日に日に進化していく。だが、その進化の方向は、どうやら僕にとっては「致命的にキライ」なところへと向かっている気がする。例えば、ソーシャル化。例えばメールからショートメッセージへ。例えばブログからTwitterへ。ITの世界は、「仲間内で」「気軽に」「薄いつながり」を実現する方向に向かいつつある気がする。それらはすべて、僕にとって「致命的にキライ」なものばかりだ。

僕がこうしたものをなぜキライなのか。それはこれらがすべて「役立たずのゴミ」に見えるからだ。インターネットを、ただの「おもちゃ」にしか見ていない人間たちが日々量産するゴミのような情報にしか思えないのだ。

これは多分、インターネットというものに対する捉え方の違いなのだろう。僕は根本にインターネットを「知識のネットワーク」として位置づけている気がする。そこにあるもっとも中心となる価値は、さまざまな「有用な知識である」という確信がある。多くの人々が、自分の持つ有用な情報を提供し合うことでお互いの問題解決をはかる、そこにインターネットの原点を見る。

だから、僕にとって、検索時にゴマンと出てくる何の役にも立たない「つぶやき」は、検索を邪魔するゴミ以外のナニモノでもない。「なんとかなう」とか、「お前が今どこにいるかなんてどーでもいい情報でインターネットのリソースを消費するな!」と思ってしまう。

だが、世の中はそうは見ていない。ネットはコミュニケーションの場であり、遊び場であり、買い物をするショップであり、暇つぶしの道具である。そういう人のほうが多数となりつつある。そして実際、そういう使い方のほうが使っていて楽しいし、楽だろう。

多くの人は、「面倒くさい」より「簡単」を選ぶ。Webの世界は、本格的なWebサイトからブログへ、そしてTwitterへと移り変わった。Facebookという新しいソーシャルな世界も、中身を見れば「メッセージ」と「いいね」ばかりだ。ボタンを押すだけ、1行のテキストを書くだけ、この気楽さが多くの人の支持を得ることにつながった。そして、その気楽さこそが、僕が「致命的にキライ」なものなのだ。

僕は、「すべてのものの価値は、それを産み出すのに費やされた時間に比例する」という頑なな考えを持っている。これはどんなものでもかまわない、さまざまな芸術作品でも、人間関係でも、恋でも、情報でも、それを形にするまでにどれだけの時間と手間を費やしたかでそのものの値打ちは決まると本気で思っている。どんなに優れた作家であっても、その人が5分で生み出した作品は5分の価値しかない。まったくの素人が1年かけて創りだした作品のほうが、1年分の価値を持っている。僕はそう信じている。それは、オークションで落札される金額のことを意味しているんじゃない。芸術性や普遍性といったものとも違う、なんというか「人が生きる上での価値」のようなものだ。

今のインターネットには、100円ショップで売っているような、薄っぺらでいくらでも代りのきく情報ばかりが増えている。そして、「かけがえのないもの」が猛烈な勢いで減っている。確かに100円ショップは便利だ。僕もよく利用している。日常の「別になかったからといって死ぬわけでもないけどちょっと必要な、どこにでもあるもの」をいつでも素早く手に入れるのには便利だ。だが、そうしたものに押され、「本当の価値あるものを扱うところ」が消えてしまったとしたら……。

世界中、どこにいってもファーストフードが当たり前のようにあり、個人のすばらしい店は消えていく。一人ひとりにぴったりとあった服を仕立ててくれた店は潰れ、跡地にはユニクロがやってくる。本場で長年修行を積んだ素晴らしいイタリアンの店は潰れ、代りにファミレスがやってくる。世の中は、そう変化していく。ネットの世界で今、起こっていることも、それと同じことのように僕には見える。時間をかけて生み出された有用な情報の価値は顧みられなくなり、誰もが手軽に生み出すコンビニエンスなほとんど役立たずのデータで埋め尽くされつつある。

100円ショップも、マクドナルドも、ファミレスも、コンビニも、ユニクロも、今はなくてはならない存在だ。僕だって時に便利に利用する(マクドナルド以外は)。だが、世の中がそうしたものだけで埋め尽くされてしまったら、僕らは「本物」をどこで知ることができるのだろう。あるいは、「便利なマガイモノがあれば、本物なんてもういらない」のだろうか。

長い地道な苦労を僕は尊ぶ。時間と手間をかけ、こつこつと創り上げたものが高く評価される世の中を僕は支持する。手軽なもの、簡単なもの、それはもちろんあってしかるべきだ。そうした便利さが必要なことも世の中にはある。いや、おそらくこっちのほうがはるかに占める割合は高いことだろう。だが、そうしたものが「手間をかけて創りだされたもの」の価値を超えて評価されることがあってはならない。断じて。

僕も、Buzzでつぶやいている。Facebookのウォールにメッセージを投稿する。100円ショップでたまには買い物するように。そうしたものももちろん世の中には必要なことぐらいわかっているから。だが、それだけの人生なんて悲しすぎるだろう。100円ショップで買ったもので埋め尽くされた人生が、君は素晴らしいと思えるかい?

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