「変わらない」ことは悪なのか?

何、と具体的なものがあったわけではないのだけど、最近、あちこちで目にするニュースや記事などでチョリッ、チョリッと募る不快感がたまってきたので、ここで一気に吐き出しておこうと思う。

例えば、「なんとかかんとかすれば成功する」とかいったビジネス本とか、「Web 2.56で成功する本」的なIT関係の(技術書ではない)本とか、そうした関係のブログとか。あるいは原発の問題でもいい、政治の話でもいい。さまざまなところで目にする構図。「変化を生み出す勢力」対「今まであったものにしがみついている勢力」という対決。あるだろう、いろんなところで。そうしたものの見方が、どうも昨今、気持ち悪く感じるようになってきたのだね。

何が気持ち悪いのかというと、それはつまり「変化を生み出す=正義、変化を望まない=悪」という図式が、あまりに強烈になってきて、それとは異なる見方を許容できないような世界になりつつあることが、なのだ。以前はそれほどでもなくて、「いや、変化を受け入れないという選択だってあるんだ」というゆとりのようなものがあったように思うのだけど、それが今や許されなくなりつつあるように感じるんだな。これが気持ち悪い。不快だ。そして怖い。

改革は常に正しくよいことなのか。変化を拒絶するのは、常に「変化に取り残された落ちこぼれ」であって、この先、未来はないのか。――最近の成功本(なんて呼ぶんだ? オレはこうやって成功したぞ、すごいだろ本のことね)などでは、「世の中は変わりつつあるんだ、いつの時代も、時代の変化にいち早く気づきそっちを選択した人間が成功し、古いものにしがみついた人間は消えていったんだ」というようなことを強調する。いや、本にかぎらず、新聞であれブログであれソーシャルサイトであれ、誰もがいかにも自分だけは変化に気づいてます的なドヤ顔でそうつぶやく。

いいや。違うね。

断言してもいい。いつの時代も、人々が暮らすこの世界を支えてきたのは、「変化を望まず、昔から受け継いできたものをそのまま守り続けた人々」だ。そのことだけは断言できる。変化を起こした人間が、この世の中を作ったんじゃない。

だいたい、いつの時代も、「真っ先に変化を起こそうと飛びついた人々」は、たいていみんな死んでるじゃないか。幕末・明治維新を見るがいい。本当に変化を起こそうとした人間はあらかた死に絶え、「変化を起こそうとしていた頃は様子見をしていて、時代の変化が確定し安定したものになったところでそれに乗っかった人間」が成功しているじゃないか。

「例えそうだとしても、変化に飛び乗った人間が成功したのは確かだろう」って? なるほど、そうかも知れない。大金持ちになったり、華族様になったりしたのは、そうした変化にうまいこと乗った人間だったろう。――だがね、「そうした人間が日本という国を支えてきた」わけじゃないぜ? この国を支えてきたのは、そうした時代の荒波が押し寄せてきた時も、それが通り過ぎた後も、何一つ変わらずにひたすら額に汗して田畑を耕してきた人間だ。物心ついた頃から同じ仕事をし続けて死んでいった無慮数の人々だ。そうした大多数の人間が暮らしを支えていたからこそ、自称「変化を起こす」人々は安心してやんちゃしてられたんじゃないか。そのことを忘れ、さも「自分が世の中を支えている」かのように振る舞うことが正義なのか?

変化を起こすということは、それまでどっしりと支えられてきた安定した暮らしがあってこそ可能なことだ。変化を望まず昔から連綿と続く日常を守り続ける名もない大勢の人々に支えられて、彼らは安心して変化を起こすことができたのだ。「変化を起こす者」は、断じてそのことを忘れてはならない。「自分が、変化を望んで来なかった人々に支えられているのだ」ということを。

僕は別に「変化すること」を否定しているのではない。変化は必要だ、いつの時代も。遺伝子が突然変異を起こすことが進化につながるように、人間の暮らしにも突然変異のような変化は必要だ。だが、そうした「われこそは変化の具現者」といわんばかりの人々よ、よく頭にいれておいて欲しい。――突然変異の、99%は「がん細胞」だってことを。人間の暮らしをよりよいものに変える突然変異は1%以下でしかない。大半の「変化」は、人の暮らしを破壊するだけで終わるのだ。

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