「男だから」

「パパ、女だったら本当にいい奥さんだよね」

……どういう話の流れだったか忘れたが、夕食の席でそう妻がいった。やさしくて、家事もできて、面白くて、仕事もできて、女だったらいうことなし!ということらしい。――この言葉の中には、多分、「男としてはとても十分とはいえないけど女としてなら許せる程度のせせこましい稼ぎ」とか「男としては軟弱すぎるけど女としてならまぁ許せる程度の腕力や体力」とかいった「女のほうがまだしもマシな要素」というのもぎょうさん含まれている気がするが、まぁそれはいいとしよう。

僕は「奥さんにしたい男」ベストテンを調べたらかなり上位に入るだろう自信はある(ただし、掃除を除く)。家事も家の雑用(買い物とか町内会の雑用とかそういうのね)もけっこうマメにやっているほうだと思うし、世の一般的な男性諸氏ほど苦にならないようだ。いや、もともとはけっこう苦にしていたのだけど、何年もやってるうちに慣れてしまった、というべきか。

なぜこうした家事や雑用を僕はやるのだろう。いろいろ考えてみたのだけど、おそらく理由はこれだ。「僕が男だから」だ。

僕は、「男だから……」という言葉が大キライだ。男だから○○だ、という言葉。「男だから家事なんてしなくていい」「男だから働いて家族を養うのが仕事。家のことは女の仕事」――そういう言葉が大キライだ。だから、僕は反射的に「男だから○○でいいんだ」ということへの反抗を試みているのかも知れない。「男だから家事なんてしなくていい」といわれれば、反射的に「じゃあ家事をやってやるか」と思ってしまうのかも知れない。

人には、それぞれにさまざまな財産がある。さまざまな地位や能力などがある。それらを一切合切まとめて「自分のもの」としてそこから得られる恩恵を何の疑問もなく甘受できる人もいる。だが、そうした「自分が持っているもの」を注意深く吟味し、「自分の力で得たもの」と「自分の努力とは無関係に天から降ってきたもの」とに分け、それによって異なる対応をとる人間もいる。

天から与えられた財産。例えば「男であること」「日本人であること」といったこと。そうした、自分が何の努力もせず望みもしないのに勝手に与えられたものから得られる恩恵を黙って受け取ることが僕は苦手だ。男であるから、女より給料が高くて当たり前だ。男だから、炊事洗濯などできなくて当然だ。そんな「男なんだから、そういうところは楽をしていいんだ」という恩恵を渡されると、反射的にそいつを投げ捨てたくなる。

「なにバカなことをいってるんだ」と思うかも知れない。じゃあ、別のケースを考えてみよう。――例えば、どこか海外に旅行に行ったとする。そこで、とても人気のイベントがあって、長い行列に並んで待っていたとする。すると、たまたまそれを見つけたイベントの関係者がやってきて、「やぁ、君は日本人だろう? これは日本の会社が企画してやってるんだ。同じ日本人のよしみで先に入れてやるよ。さ、こっちきな!」と手招きしたとする。さあ、君ならどうするだろうか。「わーい、日本人でよかった」とその恩恵を甘受するだろうか。それとも「自分だけがそんな恩恵をうけるのは納得できない」と拒否するだろうか。

そういう例は、世の中の至る所に転がっている。そうした「実力・能力とは無関係のところで与えられる恩恵」が増えるに従い、世の中は確実に悪くなっていくのではないか。そして日本という国は、あらゆるところでこうした「実力能力とは関係ないところでの恩恵をお互いに甘受し合う」ことが常態化してきた国であるのは確かなのだ。そのことが昨今、さまざまなところで弊害という形で吹き出してきているんじゃないのか。

「男だから家事なんてしなくていい」――その恩恵を甘受するということは、世の中にはびこるこの種の「実力能力とは無関係に与えられる恩恵」を肯定することにつながる、と思ってしまうのは僕の考え過ぎなのだろうか。

まずは隗より始めよ、という。だから、僕は世の中にはびこるこの薄汚い仕組みを変えるために、「男だから家事なんてしなくていい」という恩恵を投げ捨てる。そうやって自分の身の回りから「実力能力とは関係なしに与えられる恩恵」など通用しない小さな世界を再構築していく。もちろん、これで世の中は変えられない。だが、少なくとも「僕」は変えられる。僕の人生をよりよいものに変えることは、多分、可能だ。そして、それで十分なのだ。

……では、家事の負担が減り、それだけ楽になった妻は? 彼女はいいんだ、それだけ楽をしても。だって、僕の妻なんだから。「僕の妻である」ということは、それだけで相当な努力を払っているはずだからね

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