だいぶ前の新聞の投稿にあったことなのだけど、どうも未だにもやもやとしたものを引きずっているので書いておく。
それは、原子力の放射能に関するパンフレットを国が学校に配っているということを知った保護者(母親?)からの投稿だった。そのパンフレットには、身近にある放射能だのについてとりあげ、何がどれだけの放射線を出している、というようなことを紹介しており、最後に「身近な放射能を測ってみよう」とガイガーカウンタで調べてみよう、というまとめだったそうだ。
それを見て、その人は激怒するのだった。「身近な被曝例をあげることで、放射能はたいして危険じゃないと刷り込もうとしている。放射能を測ってみよう!なんて、実際にガイガーカウンタを首から下げて投稿している福島の子供の気持ちを考えたことがないのか!」と。そうやって放射能の危険を過小評価させ、原発再稼働に持って行こうという魂胆だろう、というのが投稿の趣旨だった。
この時期、この種の話題に過敏になるのはわかるし、国がそんなパンフレットに税金を投入する意義も疑問とは思う。ただ、「放射能の危険から身を守るには、放射能に関する正しい知識を身につけることこそが大切だ」という基本的なスタンスは間違っていないと思うのだ。その内容が偏向しているのかは、僕は現物を見ていないのでよくわからない。ただ、「放射能をもっとよく知ろう」という考え方そのものを批判すべきではない。
ここのところで、その投稿者の意見には論理のすり替えのようなものを感じたのね。つまり、「その内容が正しくない、偏向している」から問題だ、というのではなしに、「そうした情報を広めようとすることそのもの」に対し問題だ、といっているように読み取れたのだ。すなわち、「国がやることはすべて間違っているに決まっている」的な、ね。
時として僕らは、そういう間違いを犯す。本来、物事は「その内容が問題だ」ということなのに、「誰がやったから問題だ」というようにすり替えてしまうことを。放射能のパンフレットを配布することに問題があるとするなら、それは「その内容が正確かどうか」であるはずだ。決して「国がやったから」問題だ、ということではないはずだ。が、今は、その内容がなんであれ、「国がなにかやれば、それはすべて問題にすべきことだ」という捉え方がまかり通っているように思えるのだ。
……原発が全機停止し、また原発問題への関心が高まりつつあるように思う。だがしかし、そこで以前にもまして原発に関する考えがより深まっているかというと、とてもそうは思えないのだ。その最大の要因は、原発に関して、多くの人が「聞く耳を持たない」ことにあるのではないか、と思えてならない。
現在、おそらくは日本に住人の半数以上が「原発反対」の立場だろうと思う。その丁度の差はあれ、最終的に原発を無くす方向に進むことは基本的なコンセンサスとしてほぼ一致を見ていると思う。だが、そこに至る過程はさまざまにあるはずだ。とりあえず代替エネルギーが浸透するまで一部の原発を動かしながら次第に移行していく、という考えもあるだろうし、今の全機停止をそのまま維持し、ひたすら我慢だ、という人もいるだろう。
しかし、そうした具体的な議論になったとき、原発を肯定したり、再稼働を認めるようなニュアンスや言葉が含まれた瞬間、それは「そんな意見は聞きたくない!」と否定されてしまう。そういう状況にないだろうか。
僕は以前、「原発わからない派」という立場であることを宣言しておいたけれど、最近、次第に「原発再出発派」というべき方向にシフトしつつある。その理由はいくつかあるが、最大の理由はこれだ。
「今の、原発反対を叫ぶ人の仲間にみられることだけは断じてイヤだ」
今、原発反対を声高に叫ぶ人の多くは、「反原発原理主義」とでもいうような硬直した考えに支配されているように見える。原発を肯定するものは一切認めない。聴こうとしない。存在すら許さない。原発はすべて悪だ。その教義を疑うことすら許さない。そういう原理主義者の匂いがぷんぷんする。――僕は、「何が正しいか」以前の話として、この種の原理主義は絶対に認めない立場をとる。その内容如何にかかわらず、断じて。
原発=福島原発ではない。福島の事故は、原発の事故なのか、それとも福島原発固有の問題なのか、あるいは福島で採用されているシステムの問題か、はたまた技術的な問題ではなく運用上の問題なのか。そうしたことを精査することすら禁じ、「とにかくすべて悪」と断じる、そんな姿勢から未来が見えるわけがない。
失敗の原因を探っていけば、その先の進むべき道も見えてくる。原子力というエネルギーそのものをまるごと封印すべきか、あるいはもっと安全なやり方を探りそちらにシフトするべきか、はたまた問題点を解決できればそのまま使い続けてもいいものなのか。そうした議論をすっ飛ばし、最初から「原発廃止の結論ありき」ではないのか?
僕は、原子力という技術と知識そのものをまるごと封印することには躊躇する。確かに原発は危険が伴う、だがそれを今まで以上に低く抑えることは可能なのではないか。例えば現在の原発を廃し、新たにトリウム溶融塩炉にシフトするという道はあり得ないのだろうか。どんな馬鹿げた意見であれ、ともかくも聞く耳を持つこと、そこからすべては始まる。「そんな話、聞きたくない!」だけは、聞きたくない。
それは、原子力の放射能に関するパンフレットを国が学校に配っているということを知った保護者(母親?)からの投稿だった。そのパンフレットには、身近にある放射能だのについてとりあげ、何がどれだけの放射線を出している、というようなことを紹介しており、最後に「身近な放射能を測ってみよう」とガイガーカウンタで調べてみよう、というまとめだったそうだ。
それを見て、その人は激怒するのだった。「身近な被曝例をあげることで、放射能はたいして危険じゃないと刷り込もうとしている。放射能を測ってみよう!なんて、実際にガイガーカウンタを首から下げて投稿している福島の子供の気持ちを考えたことがないのか!」と。そうやって放射能の危険を過小評価させ、原発再稼働に持って行こうという魂胆だろう、というのが投稿の趣旨だった。
この時期、この種の話題に過敏になるのはわかるし、国がそんなパンフレットに税金を投入する意義も疑問とは思う。ただ、「放射能の危険から身を守るには、放射能に関する正しい知識を身につけることこそが大切だ」という基本的なスタンスは間違っていないと思うのだ。その内容が偏向しているのかは、僕は現物を見ていないのでよくわからない。ただ、「放射能をもっとよく知ろう」という考え方そのものを批判すべきではない。
ここのところで、その投稿者の意見には論理のすり替えのようなものを感じたのね。つまり、「その内容が正しくない、偏向している」から問題だ、というのではなしに、「そうした情報を広めようとすることそのもの」に対し問題だ、といっているように読み取れたのだ。すなわち、「国がやることはすべて間違っているに決まっている」的な、ね。
時として僕らは、そういう間違いを犯す。本来、物事は「その内容が問題だ」ということなのに、「誰がやったから問題だ」というようにすり替えてしまうことを。放射能のパンフレットを配布することに問題があるとするなら、それは「その内容が正確かどうか」であるはずだ。決して「国がやったから」問題だ、ということではないはずだ。が、今は、その内容がなんであれ、「国がなにかやれば、それはすべて問題にすべきことだ」という捉え方がまかり通っているように思えるのだ。
……原発が全機停止し、また原発問題への関心が高まりつつあるように思う。だがしかし、そこで以前にもまして原発に関する考えがより深まっているかというと、とてもそうは思えないのだ。その最大の要因は、原発に関して、多くの人が「聞く耳を持たない」ことにあるのではないか、と思えてならない。
現在、おそらくは日本に住人の半数以上が「原発反対」の立場だろうと思う。その丁度の差はあれ、最終的に原発を無くす方向に進むことは基本的なコンセンサスとしてほぼ一致を見ていると思う。だが、そこに至る過程はさまざまにあるはずだ。とりあえず代替エネルギーが浸透するまで一部の原発を動かしながら次第に移行していく、という考えもあるだろうし、今の全機停止をそのまま維持し、ひたすら我慢だ、という人もいるだろう。
しかし、そうした具体的な議論になったとき、原発を肯定したり、再稼働を認めるようなニュアンスや言葉が含まれた瞬間、それは「そんな意見は聞きたくない!」と否定されてしまう。そういう状況にないだろうか。
僕は以前、「原発わからない派」という立場であることを宣言しておいたけれど、最近、次第に「原発再出発派」というべき方向にシフトしつつある。その理由はいくつかあるが、最大の理由はこれだ。
「今の、原発反対を叫ぶ人の仲間にみられることだけは断じてイヤだ」
今、原発反対を声高に叫ぶ人の多くは、「反原発原理主義」とでもいうような硬直した考えに支配されているように見える。原発を肯定するものは一切認めない。聴こうとしない。存在すら許さない。原発はすべて悪だ。その教義を疑うことすら許さない。そういう原理主義者の匂いがぷんぷんする。――僕は、「何が正しいか」以前の話として、この種の原理主義は絶対に認めない立場をとる。その内容如何にかかわらず、断じて。
原発=福島原発ではない。福島の事故は、原発の事故なのか、それとも福島原発固有の問題なのか、あるいは福島で採用されているシステムの問題か、はたまた技術的な問題ではなく運用上の問題なのか。そうしたことを精査することすら禁じ、「とにかくすべて悪」と断じる、そんな姿勢から未来が見えるわけがない。
失敗の原因を探っていけば、その先の進むべき道も見えてくる。原子力というエネルギーそのものをまるごと封印すべきか、あるいはもっと安全なやり方を探りそちらにシフトするべきか、はたまた問題点を解決できればそのまま使い続けてもいいものなのか。そうした議論をすっ飛ばし、最初から「原発廃止の結論ありき」ではないのか?
僕は、原子力という技術と知識そのものをまるごと封印することには躊躇する。確かに原発は危険が伴う、だがそれを今まで以上に低く抑えることは可能なのではないか。例えば現在の原発を廃し、新たにトリウム溶融塩炉にシフトするという道はあり得ないのだろうか。どんな馬鹿げた意見であれ、ともかくも聞く耳を持つこと、そこからすべては始まる。「そんな話、聞きたくない!」だけは、聞きたくない。
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