アクセルとブレーキ
ハフィントン・ポストの日本語版が始まった。これは見るだけでなく、参加できるところに特徴がある。これは試しにやってみればなるまい、と思い、しばらく前からちょっとコメントを投稿している。コメントを書くために自分の考えをまとめなければならないわけで、ちょっとしたトレーニングのつもりで時々投稿している。
まぁ、ハフィントン・ポスト自体の評価は置こう。そうやって時々投稿したり、他のコメントを読んだりしているうちに、なんというか思うようになったのだ。それは、「人は、論理的に考えない」ということを、だ。
自分なりに論点を整理して客観的にわかるようにコメントしようと思うと、どうしても論理的に話を構成しなければならない。これが個人的には「トレーニング」になるな、と思っていたのだけど、見てみると実はそんなに考えて投稿しているのは、ごく一握りしかいないことに気づく。多くは、直感的、感覚的な「感想」にすぎないものであることがわかってくる。
感想だから、これは議論にはならない。「私はこう思う」「いや、私はこう思う」、それで終わりだ。だって、「思う」んだから。別にこれこれこういうことを論理的に「考えた」わけじゃない。考えた意見であれば戦わせることができるが、思っただけの感想は戦えない。だって、「そう思ったんだもん」といわれたら、反論のしようがないじゃないか。「そう思うことが間違いだ」とはいえないんだから。誰だって、どんな非論理的なことでも「思う」自由はある。
これだから……と、内心ちょっとにが~ってな気持ちでいたのだけど、それでも更にコメントを書いたり読んだりしていくうちに、なんというか変わってきたのだよね。非論理的な感想が大半という見方は変わらないのだけど、そのことへの捉え方が変化してきたのだ。
それは、「なぜ、論理的でなければいけないのか?」ということを考えるようになってきたのだ。
なぜ、論理的に考えようとしていたのか。それは、「論理的でなければ議論を深めることができない」からだ。そして議論を深めることにより世の中に(多分)いい影響を与えられるようになるかもしれない、というそこはかとない期待があったんじゃないかと思う。
それは、すなわち「世の中は論理的に動くのが正しいのだ」という暗黙理の前提に僕が立っていたからだと思う。
だが。世の中は、ちっとも論理的に動いてなんかいないのだよね。論理的に考える人はごく一握りだ。大半は感情的・感覚的に「思う」方向へと動く人たちなのだ。
例えば、最近の脱原発ブーム。彼らの言動は、ちっとも論理的ではない。「被災者の気持ちを……」とか、「未来の子どもたちに……」とかいった感情で、感覚的に動いている。いろいろ調べると、実は原発推進のほうがはるかに論理的に論を展開してたりするんだよね。
じゃあ、原発推進が正しいのか。――いや。おそらく今の日本では、「脱原発」のほうが正しいのだろうと思う。たとえ論理的でなく、感情的であったとしても。
いや、「感情で動く」からこそ、脱原発はおそらくは「正しい方向がどこか」をとらえている。
人は、論理では動かないのだ。人は感情の生き物だ。楽しい悲しい、幸せだ、辛い、そうした気持ちで動くものだ。そして人間の生きる目的というのは、「社会を論理的に正しいものにしていく」ことではなく、「楽しく幸せな世の中を作る」ことだったりするんじゃないか。である以上、たとえ非論理的であっても感情を重視した道を歩むのが、実はいい世の中を作るための妥当な道なのではないか。
ただ、感情だけで動くと、時にはとんでもない方向へと進んでしまうこともある。イケイケドンドンな興奮によって戦争をおっ始めたり、金儲けに走って環境をどかどか破壊したりする。いくら「感情の生き物」とはいえ、それはまずい。なぜまずいかといえば、そうした間違った方向に突き進むことで、結局は自分たちの「幸せな世の中」を破壊してしまうからだ。
だから、そうしたときの「歯止め」として、「論理的な物の見方」というのが用意されるのだ、と思う。世の中がいい方向に進んでいるとき、実は「論理的な正しさ」なんてものはいらないのだ。冷静な判断というのは、人が誤った方向に進もうとしたとき、それを命がけで止めるために用意されているのではないか。
例えば、今、さまざまなきな臭い動きが世の中にはある。憲法をどーにかしてやれ、という動きとかね。それは、「愛国心」とかいった感覚的・感情的なものを煽って「そうだそうだ、そっちに進め」とやってる。だからこそ、そこには冷静で論理的な壁を築かねばならない。熱くなってぶつかってきた人間を冷然と受け止め熱を冷ますに足る堅固な壁が。それは、同じ感情や感覚で作ってはならないのだ。それは火に油を注ぐことにしかならない。感情を、感情で止め、覚ますことはできないのだから。
世の中には、僕のように、気がつけばつい、無意識のうちに論理的に考えてしまう人間というのがいる。そうした人たちへ。くれぐれも「自分たちが世の中をいいものに変えていく」などと考えないようにしよう。僕らは、アクセルではない。ブレーキなのだ。順調にドライブしている時に僕らの出番なんてない。世の中を動かすのは、感情で物事を進めていく彼らだ。僕らは世の中なんて動かしやしないのだ。
そしていざ僕らの本当の出番が来たとき、その時こそ、体中を燃やし身を削り自分自身と引き換えに世の中を止めるブレーキとならねばならない。なぜなら、それができるのは僕らしかいないから。世の「論理を重んじる人々」よ。ブレーキとなる覚悟はあるか。