寄付した「つもり」

震災から3年がたった。

これを期に、いろいろな企画を考えるところがでてきている。Yahoo!では、「3.11、検索は応援になる」という企画を実施し、あちこちで話題となっている。もう知っている人も多いだろうけれど、Yahoo!で「3.11」と検索するとYahoo!が10円を寄付する、というものだ。

これは、まぁいいアイデアだと思う。震災からの復興に人々の目を向ける一つのきっかけとしてなにかの役に立つかもしれない。ただ、この企画に関する人々の反応が、なんともいえない、気持ちの悪さを感じてしまうのだ。

「私もYahoo!で検索して10円寄付しました!」

……みたいな投稿がTwitterやらなにやらであふれている。こうしたセリフを耳にするたび、目にするたびに覚える違和感。嬉々としてクリックし「寄付しました~」と本気で思い込んでいるらしい人々に、どうしてもこういわずにはいられない。

勘違いしないで。あなたは、一円も寄付してないから。

こんなことを改めて言うのもバカバカしいけれど、寄付しているのはYahoo!だ。クリックした人間ではない。それなのに、多くの人が「私もクリックして寄付しました!」と胸を張って宣言する。自分がなにか役に立つことをしたかのように。

「いや、役に立っただろう? 確かに自分では寄付してないが、クリックするという行為によってYahoo!に寄付をさせたんだ。これって復興に役立ってるじゃないか」

いいや。違うね。

こう考えて欲しい。あなたがクリックしなかったら、Yahoo!は寄付しないのか?と。

みんな何か錯覚している。クリックしようがしまいが、Yahoo!はそれなりの額を寄付するのだ。というか、Yahoo!に限らず、多くの企業は話題に上らなくともみんな利益の中から少しずつ寄付しているのだ。

寄付していないのは、我々、個人だけなのだ。

多くの復興支援やボランティアは、寄付によって成り立っている。そしてそれら寄付の8割以上は、企業からの献金で賄われている。個人による寄付は圧倒的に少ない、それが日本という国なのだ。その時は大騒ぎして寄付だボランティアだと騒ぐが、喉元すぎれば1円だって寄付する気はない、それが平均的日本人なのだ。

Yahoo!の「クリックで寄付」企画は、企画としてはさすがだ。どうせ寄付するなら、話題となり、大勢を巻き込んだほうがいい。それにより、多くの人の目が再び災害復興に向かうかもしれない。風化しつつある震災に再び目を向けることができるかもしれない。そしてもちろん、企業イメージも向上し、検索に大勢を誘導できる。そこまで考えたなら(おそらく考えての企画だろう)、さすがYahoo!と思う。

だが、Yahoo!が思ったように、果たして人々の意識がよい方向へとこれで向かうのだろうか。むしろ、これを免罪符としてすっきり忘れ去る方向へ進んでは行かないか?

「クリックして終わり」なら、それは何もしないのと同じなのだ。むしろ、自分の中にある何処か後ろめたい思いを、「これで自分も力になれた!」とばかりに自分の懐を全く痛めることなくすっきり解消できるなら、逆に「害ある行為」じゃなかろうか?

自分は、もうあれほど大きかった震災のことを忘れかけている。何か力にならないと……とは思いつつも、日常の忙しさ、長引く不況下の苦しい生活をいいわけにして何一つしようとしてこなかった。そうした「後ろめたさ」を、「ネットでワンクリック!」で解消してはならない。「自分は何もしてこなかったのだ」という痛みをそんなことでなくしてたまるか。

ネットでクリックしたぐらいで、何かした気になるな。そんなことで、何か力になったと錯覚するな。

無力であることの痛みを、無力であることを放置したまま解消しようなどと思うな。

何もできないなら、せめて「何もできなかったことへの痛み」に耐え続けるぐらいのことはすべきと僕は思う。それがいずれは何かの行動に結びつくかも知れないのだから。

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