メールで謝罪論争(?)

アゴラを見ていたら、とても興味深い記事が乗っていた。

「メールで謝って何が悪い」
http://agora-web.jp/archives/1591781.html

これは、Googleが内部文書を誤って公開してしまっていた件についてメールで陳謝したことに対する読売新聞の記事に関するブログ記事(……書いてて何いってんだかわかんなくなってきたけど)だ。えーとね。

Googleが、空港の内部資料だのを間違って公開していたのが発覚したのが事の発端。で、この件についてGoogleは関係各社に陳謝したわけなんだけど、それが「メール」だったわけ。読売新聞の記者がそれを取材して、「これだけのことをしておいて謝るのはメールで済ませるなんて、ったくIT企業ってのはこれだからよ。直接会いにいって謝罪するのが筋だろ」的な意見を展開したわけね。

で、この記事について、「それってお互いの常識が違ってるってだけでしょ。直接会って謝罪って、要するに相手の生活に土足で入り込んで貴重な時間を無駄にするわけだろ。むしろ自分の時間だけかけてメールの内容をしっかり考えて送るほうが相手のことを慮ってるんじゃないのかよ」的な意見を提示したんだよね。

これが面白い。これは単純な話のように思えるのだけど、実はいくつもの観点が重層的に折り重なって生じている問題なんだよね。

①論理の重要性
まず、両者の対立として思い浮かんでくるイメージは、「感情対論理」の対立というものだ。感情を重視する旧人類と、論理を重んじるIT世代という構図。直接あったからといって正しいことが伝わるわけでもないが、少なくとも相手の誠意は伝わるだろう。が、メールなら正確な形で真意を伝えられるはずだ。どちらがよいというわけでもないのだけど、それぞれに「いや、こっちが正しいでしょ」と感じるんじゃないだろうか。

僕は基本的に「物事は論理的であることが大切だ」と考えている。論理を重視することは感情よりも重要だ。物事をもっとも効率よく正確により優れた形で進めるためには論理を重視すべきだ。あらゆる場面で無意識にそう考える。

そして。「世の中は、非効率で不正確で不出来な形で動いているんだ」ということを忘れてしまう。

コミュニケーションに関する考え方
「直接会うこと」は、コミュニケーションの基本でありもっとも原始的なあり方だ。これに対する捉え方の違いが面白い。旧人類は、それこそが基本でありもっとも相手のことを大切に考えている証と考える。が、IT世代は「直接顔を合わせるなんて相手に迷惑なことこの上ない」と考えている。これは基本的に「直接的なコミュニケーションはむしろ害だ」という感覚が強いんじゃないだろうか。

IT世代は、人と会うことに「負担」を感じる。会うというのは億劫で、そしてとても迷惑な行為なのだ。自分が迷惑に感じるのだから、相手だって迷惑だろう、だから直接会うなんて迷惑だ。そう感じる。

そして。「世の中は、他人に迷惑をかけていいんだ」ということを忘れてしまう。

③真意を伝える=コミュニケーション
メールで何が悪い、と考える根本には、「ネット空間のほうが正しく真意を伝えられる」という考え方がある。ネットで何かと議論が紛糾するのは、実は相手に正しく真意が伝わってしまうからだ、というこの記事の筆者の意見は非常に正しいと思う。直接会うコミュニケーションというのは、実は真意を伝えるのにはあまり向いてないのだ。メールで熟考したほうがはるかに正確な真意を伝えることができるのは確かだ。

そして。「だからこそ、直接会うべきなのだ」ということを忘れてしまう。


僕もそうなのだけど、IT世代は、実は旧人類以上に「性善説」に立って物事を考えている。「おいおい、そんなわけないだろ」って? いや、そうなんじゃないかな。だって、僕らの根幹には、「物事をより良い方向に向ける、正しい方向に向ける」ということは誰だって無条件に肯定するはずだ、という思い込みがあるじゃないか。

いいことと悪いこと。正しいことと間違ったこと。僕らは無意識に「いいこと、正しいことを選ぶのがあたりまえだし、そうすべきだし、みんなそうするはずだし、そうすればみんな賛同するはずだ」という思い込みがある。これって究極の性善説だろ? だって、人は皆、正しいほうを選ぶはずだって信じてるんだから。

でも、人は「いいか悪いか、正しいか間違っているか」なんてことで全然動いてない。世の中は、そんなことで進まない。じゃあ、何で動いてるんだ、どういう価値判断で考えてるんだよ、とIT世代は思う。いいか悪いか、正しいか間違っているか、効率的か非効率か、よりよい方法かそうでないか、いい出来か悪いできか――そうした考え方以外に物事を判断する基準なんてないだろ? 他に何かあるのかよ。そう思う。

あるんだ。そんなことよりはるかに大切で、おそらくすべての人間が根本で支持している価値判断の基準が。


それは、「好きか、キライか」だ。


好きなら、たとえ間違っていてもそれを選ぶ。好きなら、非効率であってもその方法をとる。好きなら、出来が悪くてもそれを愛する。「好きかキライか」は、あらゆる価値基準を超えたところにある。

メールで陳謝するのは正しいのか。いい方法か。考え方はいろいろあるだろう。だが、たとえ正しくて最良の方法であったとしても、「そんなのキライだ」と思えばそれは選ばないのだ。

もちろん、あらゆるものをすべて「好きかキライか」で選んでいたら、世の中は成り立たないだろう。だから、場合によっては、好き嫌いを抑えて、別の価値基準で判断をする。法律があれば、たとえキライでもちゃんと守る。でないと社会が維持できないからね。約束は、破ったら信用を失って後々大変になることがわかっていれば、守る。正しい方法をとらなければ会社が倒産する危機にあれば、多分それを選ぶ。

でもそれは、「それが自分にとって一番上にある判断基準だから」じゃない。「この状況では、そうしないとまずいから、しょうがなく」だ。一番上にあるのは、常に「好きかキライか」だ。

だから、「メールで謝罪」は、悪いのだ。なぜなら、謝罪を受ける側が、そのやり方を「キライ」だから。――うむ。なんて論理的な結論だ。素晴らしい。

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