イスラム教徒を守れ!

シドニーで痛ましい事件が起きた。カフェにイスラム過激派らしき人間が立てこもり、警察と銃撃戦の末、容疑者と人質だったカフェの客2名が死亡した。

パキスタンでは、タリバンらしきメンバーが学校で銃を乱射し、130名以上もの生徒や教師が死亡したという。イスラム過激派によるテロは、このところ更に激しさを増しているように思える。

こうした事件が起きる度に暗澹たる気持ちになるのは僕だけじゃあるまい。が、すべてが悪いことで埋め尽くされるわけでもない。悪いことがあれば、良いこともある。


事件が起きたシドニーでは、「一緒に乗るわ」運動が広がりつつある、と毎日新聞が報じている。こうした事件により、イスラム教徒が危害を加えられる危険が増しているに違いない。そこで、「もし、あなたがムスリムで、不安を感じるなら、出かけるとき一緒にバスや電車に乗ってあげるわ!」という声が次々とあがり広がっているのだ。

この話を耳にしたとき、オーストラリアという国の懐の深さを見せつけられた思いがした。移民国家ということもあるのだろうが、自分とは異なる人々への寛容さは、とても自分などは真似できないものだ。

どの宗教にも、どの民族にも、どのような主義思想にも、まっとうに暮らしている人もいれば、過激な主張をし行動をする原理主義者もいる。そうした一部の過激派が事件を起こしたとき、「その他のまじめに生きている人々を守らなければいけない」という発想が自然発生的に市民の中から出てくる。これは、すごいことじゃないか?

もし、これが日本だったらどうだろう。イスラム過激派が日本でテロを起こし、多くの日本人が死亡したら。果たして、「きっと日本に暮らすイスラム教徒はつらい思いをしているだろう。彼らを守らなければ!」という動きが起こるだろうか。いや、そもそもそんなことに思い至る人間が日本に何人いるだろうか。

おそらく、まず間違いなく、最近少しは下火になった感のあるヘイトスピーチなどの動きが息を吹き返し、「やつらを日本から追い出せ」という空気に支配されるだろう。

何か恐ろしい出来事があると、人は反射的にそうした相手を攻撃しようとする。臆病な人間ほど、「あいつも敵」「こいつも敵」と、少しでも敵対する相手と共通する点がある人間を次から次へと敵に認定し攻撃する。恐怖は人から冷静な判断を奪う。過激に人を攻撃するものほど、実は人並み外れて臆病なのだ。日本という国は、そうした臆病者で満ちている。

だが、多分希望はある。

僕が暮らす千葉という地は、しばらく前から「ムスリムが暮らしやすい県」を目指している。千葉市の熊谷市長が音頭取りとなって、あちこちに礼拝施設を作ったり、ハラール食を提供するレストランを増やしたりしている。

もちろん、その理由は一にも二にも「経済」だ。ムスリムは今やクリスチャンよりも多い。成田空港を擁する千葉県は、ムスリムが住みやすい町を整備していくことで観光などにつなげたい、ということだろう。少なくとも、「昨今、イスラム教徒の人々が肩身の狭い思いをすることが増えているみたいだから、彼らを守れ!」という発想でないことはなんとなく想像がつく。

が、それでもやらないよりはマシだ。少なくとも、そうしてムスリムが当たり前のように町を闊歩するようになれば、彼らもまた普通の人々なのだということが実感として理解できるようになるはずだ。日本人は、頭で「正しい」ことを理解して行動するのは苦手だが、人情として行動することは得意なのだから。

というわけで。ISISイスラム過激派によるテロが連日紙面を賑わせる今。「イスラム教徒を守れ!」ということを声を大にしていってみたい。それはイスラム過激派を擁護するということではない。むしろ、イスラム教徒が平和に暮らせる事こそ、最大のテロ組織への攻撃となるはずだ。

北風と太陽。勝つのは太陽だ。北風じゃ、ない。

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