A.I. 美空ひばりが奪ったもの

AI歌手をAIに描かせてみた。

年末恒例の紅白歌合戦で、A.I.による美空ひばりの新曲が登場して話題になってたんだってね。うちはテレビがないから当然紅白の存在も忘れてたんだけど、そうか未だにあんなもんみんなちゃんと見てるのか。年末に。家族揃ってこたつに入ってみかん剥いて年越しそば食べて。えらいえらい。

で、この「A.I.美空ひばり」が、やっぱりというかその賛否があちこちで活発に議論されていますわね。A.I.による新たな可能性とか、あんなものは冒涜だとか。

で、実際にYouTubeで見てみたのですよ。ふーん、ボカロというから大したことないだろうと思ったら、なんのなんの、なかなかやるじゃないの。こんなにちゃんと歌ってるとは思わなかった(映像はとりあえず無視)。A.I.の進歩をつくづくと感じたのでした。

で、ついでに「そういえば本物の美空ひばりって最近、聞いてなかったな」と思ってYouTubeで検索。はっはっは。本物を聴いたら、まるで比較にならんね。ゴミだなA.I.ひばりは。そう思ってしまいました。技術の進歩は感じるものの、まだまだ本物には程遠いですね。

が。A.I.関係の進歩は確かに著しいものがあるのも確認できた気がする。もっと違和感のない、本物と区別のつかない人格を作り出せる日が来るのも遠くはないだろうと思う。そうなったとき、それは果たして受け入れられるだろうか。ちょっと考えてしまうね。

……例えば、自分にとって大切な、かけがえのない人を失ったとき。その悲しさ、苦しさ、痛みは耐え難いものになると思う。僕はまだそういった経験は自分の両親ぐらいだが、例えば妻や、あるいは子供を失うようなことがあったら。そう想像するだけで発狂しそうになる。

そんなとき、その人格を再構築し、見、話し、聞くことのできるA.I.があったら。おそらくは、亡くしたがための痛みや苦しみはずいぶんと緩和されるだろう。辛さも軽減されるだろう。

で、思ったのだ。

大切なものを失った痛みまで奪われてたまるか、と。

そいつは俺だけのものだ。亡くした人の代りをA.I.であてがわれ、「亡くした」ことすらなくしてしまうのか。冗談じゃない。

例えば、すでに亡くなった著名人を映像化したり、何らかの目的のためにA.I.で再現することはあるだろう。そうした特定の用途・目的のためにA.I.が活用されることは今後もあると思う。だが、亡くなった人そのものの代用としてA.I.が活用されることはあってよいのか。

「他に代りのない、かけがえのないものを失う」ことは、人にとって大切なことなのだ。大事なものだから失わなわないように、という気持ちは理解できる。だが、「大事なものだから、なくしたら代りを用意する」ということは、そもそもその「かけがえのないもの」ということの意味を見失うことになりはしまいか。

A.I.ひばりは、新しい何かを生み出した。それはいい。だが、それによって「奪われたもの」もあるのだ、ということを忘れてはならない。何が奪われたのか? それは、「喪失」だ。失うことを、ぼくらは奪われた。いや、奪われかけた。

いつの日か更にA.I.が進化したとき、本当に僕らは「失うこと」を失うだろう。辛いこと、悲しいこと、心の痛み、そうしたものをすべて綺麗サッパリ忘れ、楽しいことだけに囲まれて生きていく。そうした人生を「いい人生」と思う人は、受け入れればいい。だが僕は御免だ。というか、そもそもそんなものを「人生」とは呼ばない。


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