差別する「心」を許そう

 荒井首相秘書官が「同性婚は見るのも嫌だ」といった、とかいうことで更迭された。あらまぁ、この時期にこんな発言するなんて……と思っていたのだけど、これは実は公ではなく、オフレコでの話の中で出てきたものだという。え? オフレコ?

オフレコの発言が問題になるのか? だって、オフレコだぜ? 「これはここだけの話だかね。外には絶対に出されいという約束で話すんだからね」というのがオフレコだろう? そこで差別発言が出たからって、何か問題なのか? というより、そういうオフレコを表に出したことのほうがはるかに問題じゃないのか?

と、思ったのだけど、世間は違うようだ。荒井秘書官が更迭され、「そんなこというやつはクビ」で一件落着、らしい。開いた口が塞がらない。なんだって、そんなことでクビになるんだ?

「いや、絶対だめだろう? 今の時代にLGBTQに対する差別主義者ってことがわかったんだぞ。そんな奴が首相の秘書官やっていいのか?」

うん。いいと思う別に。LGBTQに対する差別意識があることは何の問題もないと僕は思う。なぜなら、心の奥底で人を差別する気持ちは、消すことができないからだ。

断言しよう。どんな人間であっても、この世のすべての人は、必ず心のなかで誰か・何かを差別する気持ちを持っている。何の差別も持っていない人はこの世にいない。心のなかで誰かを差別するのは全く問題ないのだ。

問題なのは、それを表に出し、実際に他人を差別する言動を取ることだ。「同性愛なんて冗談じゃない、勘弁してくれ」と思っていても、それを表に出して人を差別することなく、心の中にとどめておけば何の問題もないのだ。こんなことは改めて言うまでもなく、当たり前のことじゃないか。

ただ、「心の中で思ってるだけならいい、表に出さなければ問題ない」とはいっても、人間、そんなにきっちりと言動を制御できるわけじゃない。だから、例えば家族とか信頼できる仲間とか、そういう人の間ではつい本音を漏らしてしまうこともある。けれど、それは誰かを差別しようという意識があってのことではない。ただ、心の中で鬱積しているものを仲間内でちょっと吐き出して楽になるだけのことだ。そうして明日からまた心の薄暗い入り口に蓋をして、清く正しく美しく生きていくわけだよ。

だからこそ、その「こいつらは絶対に信頼できるから心の内を見せても大丈夫」と信頼していた人間にちょろっと漏らした本音が、世間的に問題となることがあってはならないのだ。それは、例えば教会で神父に告解した内容が新聞の一面を飾ることがあっては絶対にならないのと同じだ。人間社会は、お互いの信頼関係の上に築かれている。その信頼を根底から裏切るような行為は絶対に許されないことなのだ。

毎日新聞は、「人との信頼関係は、スクープのためなら壊して構わない」という考えなのか。報道機関を自認するものが、報道する相手の信頼をこうも簡単に裏切っていいものなのか。相手を攻撃する材料になるならどんなものでも利用して構わないのか。

毎日新聞に問いたい。報道機関としての矜持はないのか。


今回の報道が問題なのは「報道する側の裏切り」行為だけではない。この問題が「内心の自由が侵害されること」につながりかねないからだ。

人は、内心、どんなことを思ってもいいのである。誰を差別しようが、憎もうが、愛そうが、自由なのだ。心の中だけは、どんな人間にも触れることはできないのだ。

「いいや、心の中であっても、他人を差別する考えを持っているのは問題だ。そんなことは決して許されるべきじゃない」

もし、それが正しいこととなったなら、心の中に差別する気持ちを持つ人間はどうすればいいのだ?「そんな差別する気持ちは捨てればいい」と簡単に考えた人。人は、「気持ち」を簡単に制御することなんてできないのだ。誰かを愛する、誰かを憎む、そうした気持ちを「それは駄目だからやめな」といわれて簡単にやめられるものなのか? どんなにやめよう、忘れようと思っても気がつけばいつも心の中に沸き起こってしまう、それが「気持ち」だ。気持ちは、制御できないのだ。人の内心は、自分自身であってもコントロールなんてできないものなのだ。

その内心を「これこれこういう内心を持つ人は差別主義者です。糾弾しましょう」などということが果たしてできるのか。そもそも、その「こういう考えは問題だから罰しましょう」というその考えは、本当に正しいのか? それは誰がどうやって決めるのか?

同性愛を差別することは問題だ。これはその通りだ。では、人には「同性愛はキライだ」と思う自由はないのだろうか。「差別はしない、ただキライなだけだ」というのは許されないのか。「差別」と「キライ」の境界はどこにあるのか?

人は、「これが正しい」と思いこんでしまうと、それに少しでも抵触するものをすべて「悪だ」と断定し糾弾する。自分の意見と相反する人の考えにも一縷の正しさは含まれているのかもしれない、と考えることを拒否し、相手を完全に否定しようとする。そしてそれはただ「相手の考えを否定する」だけでなく、「相手の人間性を否定する」「相手の存在を否定する」へといとも簡単に転化される。そのことが僕は恐ろしい。

心の中の自由まで失われたら、それはもう民主主義じゃない。いや、「正しくない意見を許さない」という時点でそれは民主主義の否定だ。民主主義とはこういうものだったはずじゃないか。

「僕は君の意見に反対だ。だが君が発言する権利は命をかけて守る」

民主主義を、そして人の「内心の自由」を守るために、僕はいいたい。「差別する心を許そう」と。人が罰することができるのは「言動」のみだ。「心」は、決して罰することはできないのだ。誰かを、何かを差別する心を持つことを、許そう。醜悪な嫌悪すべき思いを持つ者を受け入れよう(それが決して言動に出ない限り)。「思う」ことを禁じたら、人は生きていけないのだから。


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