クリップされる側に立っているか?

Evernoteを始めた。

Chromeにプラグインを追加して、Webを検索してめぼしいものがあればすぐにクリップする。クリップしたデータは必要なタグを付けてとりあえず放り込んでおく。そうして、とにかくデータを整理せず、そのままの形でどんどんためる。必要があればあとでいつでも検索したりタグから探り出したりすることができる。

使ってみて、「ああ、これは昔やっていたノートと同じだ」と思った。その昔、MacにまだHyperCard(ハイパーカード)という超簡単オーサリングツールがついていたとき、自分のアイデアノートとして「データ項目1つだけのデータベース」を作って使っていたことがある。その頃、データを整理するための究極の方法は「分類整理しないこと」だと気がついた。だから見つけた情報(僕の場合、ほぼすべてテキストだったから)は、見つけ次第コピーしてデータベースに放り込んだ。これが、どんなデータベースよりも実は役に立った。Evernoteでやっていることは、Webの世界にそれを発展させたものなんじゃないか。そう考えるととても納得が行く。

で、「Evernote、便利ですね」で終われば話は単純なんだ。が、あちこちからWebをクリップして集めているうちに、次第に何か違う、という感覚にとらわれるようになってしまったのだ。何が違うのか。それは「集めて終わる」ところだ。

情報過多の時代といわれる。多数の情報がネットの上には氾濫しており、そこから必要な情報を探し出し、それを自分のものとして蓄積していく。これは方向として至極納得が行く。僕が納得が行かなかったのは、そうやってデータを蓄積していくにつれ、「自分が偉くなっていく」ような錯覚を覚えたことだ。

時として人間は、「自分が何を成したか」ではなく、「自分が何を持っているか」によって自分の価値が決まると錯覚してしまうことがある。どれだけの金を持っているかではなく、持っている金で何をなしたかがその人の価値を決めるはずであるのに、人は「どれだけ持っているか」で人の価値を判断してしまう。「彼はすごい大金持ちだ。きっとエライに違いない」と。

情報に関しても同じことがいえる。どれだけ情報を、知識を頭に詰め込んでいるのかがその人の価値を決めるのではない。その情報・知識によって、その人が何を成したか、それこそが重要なはずだ。だが人は、たくさんの情報・知識を持っていることをもってその人の値打ちを判断してしまう。

そうしたことが当たり前となっているからこそ、人はたくさんのものを自分の元に集めることにより、自分が偉くなったように錯覚してしまう。Evernoteにどんどん知識が蓄積されていくにつれ、なんとなく自分はたくさんの知識を持っているんだ、前より偉くなったんじゃないか?と錯覚してしまう気がする。気のせいだろうか?「そんなのはお前だけ」だろうか。

百万の「自分以外の誰かが生み出した情報」を集めることばかりに目が向くあまり、1つの自分自身の手で生み出した情報を世に送り出すことの意味を、人は忘れかけている。必要な情報を収集することはもちろん大切だ。だが、世界中で、日夜、人の役に立つ情報を生み出し無償で提供し続けている無慮数の人間たちがいるからこそ、それが可能だということを僕らは忘れている。自ら1つのみすぼらしい情報を作り提供することを恥じ、山のような役立つ(他人が作った)情報を誇らしげに掲げる。

Evernoteを使いながら、どことはなしに声が聞こえる気がするのだ。――「お前は、クリップされる側に立っているか?」という声が。その声に、胸を張って「Yes!」と答える自信は、まだない。

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