選択できる、ということ

少し前からBuzzってたんで知ってる人は知ってるけど、実は車を買おうとしている。で、ディーラーで既に契約までは終わって、今、手配してもらっているんだけど……、どうも悩んでしまったのが「オプション」だった。特に、カーナビだ。

純正のカーナビ(というか、iDriveというクルージングシステム)は、いろいろ付加価値があるんだけど、高い。30万ぐらいする。今までカーナビなしで過ごしてきたんだが、やっぱり手に入るならあったほうがいい。が、ぼちぼち携帯をAndroidに切り替えたいとも思っていて、そうなるとAndroidでGoogle Mapを利用すれば、カーナビいらないじゃん?という気分にもなってくる。で、本体そのものが相当に予算オーバーだったので、標準装備は見送ったのだった。

カーナビ。欲しい。欲しいけど、金がない。これ、つまりは「選択している」ようでいて、実は「選択していない」んだよね。一見すると二者択一のように見えるけど、ハナから金がないわけで、最初から「買う」という選択は、実はない。だから「お金が大事だから、つけないほうを選んだんだ」というのは、実は「選択」ではなくて「負け惜しみ」だったりするんだな。

人間ってやつは、実は自分で「選択している」と思っていることの8割ぐらいは、「選択」ではなくて単なる「負け惜しみ」だったりするんじゃないだろうか。カーナビで思い出したが、だいぶ前の新聞の投書で、けっこう年配の方がカーナビのことを書いていた。――最近はみんなカーナビをつけているが、自分はいつも助手席の奥さんが地図を見ながらの運転だ。カーナビは便利とは思うが、お金もかかるし、携帯でさえ使いこなせない自分にはとても難しそうで使う自信がない。カーナビがないおかげで、道に迷ったりあっちこっち脇道にそれたりするが、しかしそれこそ旅行の醍醐味のはずだ。今後もカーナビなしでいこう。そんな内容だった。

これは、「選択」ではない。選択したのだと自分で自分に言い聞かせているだけじゃないだろうか。もちろん、選択肢が存在しない、他が物理的に不可能だ、というわけではないよ。が、最初から自分の中で答えは決まっている。これしかないことが自分にはわかっている。それを「選択」というのはどこか間違っている気がする。

「選択する」ということは、本当にどれでも選ぶことが可能でなければならない。それは物理的に可能かどうかというだけでは十分じゃない。自分自身が「どれでも選択し得る」心の状態でなければならない。

実は、車を購入するとき、候補となっていたのは2つあった。どちらも金額的にほぼ同じ、どちらも買うことは可能だった。両方を試乗し、迷った末に決めた。これは確かに「選択」だった。だが、オプションのカーナビだの本革シートだのは、「迷っている振り」であって、それは「諦めるための通過儀礼」でしかなかった。「迷ったが、こちらを自分は選んだんだ」と自分に言い聞かせることで、それを選択できないことを自身に納得させていただけだった。

「選択する」ということは、選択できるということ以上に、「選択できるという状況を形成できること」が重要なのかも知れない。今、世の中はえらいことになってる。その多くは、「選択してきた」のではなく、「選択してきたんだと自分に言い聞かせている」だけだったりするかも知れない。選択できる状況を形成すること。その難しさをつくづくと感じる。


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