旧訳バンザイ!

大雨の中、本屋にいったのだけど、子どもの本のコーナーを見ていたら、「おおきな木」(シルヴァスタイン)が新たに出ている。見ると……、「訳・村上春樹」だって?!

慌てて、その書店に確か1冊だけ残っていたはずの、ほんだきんいちろう訳「おおきな木」を探し出して購入。村上春樹におされて絶版になったらかなわんわ。

どうも最近、江國香織だの村上春樹だの有名作家の訳した絵本が増えてきてちょっと閉口気味だ。決してそうした作家をけなすつもりはないのだけど、子供向けの絵本の翻訳は、また別の技術が必要と思う。例えば、江國香織訳の「おひさまパン」という本があって、これはけっこう人気があるようなのだけど、実際に声に出して読むとこいつが恐ろしく読みづらい。文章や単語のつながりが妙にテクニックに走っていて、絵本の基本中の基本である「声に出してすらすらと読める」ということがおそろかになっている。また句点によって長々と文章が続くため、子どもは読むのに疲れてしまうのだ。これが大人向けであればいい。だが大人向けの物語と子供向けの物語、更に言えば「まだ読めない乳幼児のための物語」はまるで違うのだ。

問題は、こうしたビッグネームの翻訳が出たために、それ以外の訳者によるまともな翻訳が手に入らなくなってしまうこと。ほんだきんいちろう訳の「おおきな木」は、格調高い名文だ。村上春樹訳に押されてこれが手に入らなくなったりしたら絵本界の損失だろう。

これは、前にやたらとたくさんの「星の王子様」が出たときにも感じたことだ。新訳というのは、新訳を出すことに意味があるかどうかを十分に考えるべきではないだろうか。ただ「作家・○○氏による新訳!」と銘打って出せば売れるだろう、ということで出すべきなのか。

翻訳者は、確かに「作者」ではないが、さりとて単なる言語の変換を行う機械でもない。多くの日本人は、外国の作品を、その作者の言葉ではなく「翻訳者が書いた言葉」によって読んでいる。名作になるほど、多くの人が「翻訳された日本語」の文章を、その作品の言葉として記憶し、共有している。それは、ただ単に「原文を変換しただけの文章」ではない。翻訳された文もまた、一つの作品なのだ。ヴェルレーヌは「ヴィオロン」であって「バイオリン」では断じてないし、指輪物語のアラゴルン(ストライダー)は誰がなんと言おうと馳夫だ、という人は日本中に山ほどいる。

ドストエフスキーの亀山新訳などは、ドストエフスキー像を刷新させた。これは「意味のある新訳」だったと思う。今の時代にあるべきドストエフスキー像というものを提示し、これから作品に出会う多くの人が記憶し共有するに足るすばらしい訳文を提示してくれたと思う。だが、そうした「新訳の意義」のない、単なる営業上の理由で出された新訳によって、多少古めかしくはあるものの格調高く美しい旧訳(?)が駆逐されるようなことがあったとしたら、確かにその新訳が数多く売れ多くの人に読まれたとしても、それは果たしてその作品にとって本当に喜ぶべきことだろうか。

村上春樹さんは、「おおきな木」の主人公である「木」を、女性らしく描いた。ほんだきんいちろう氏は、「木」を昔の母親のような言葉遣いで描いていた。村上さんの訳は話口調でくだけて読みやすい。ほんだきんいちろう氏の文はやや文語的で確かにやや古めかしい。そうした違いを考えれば、おそらく出版社にも訳者にも新訳を出す意味はあったのだろう。だが、この作品を、あえて必要以上に新しく読みやすくする意義を僕は感じない。

書店で、2冊を読み比べた。村上さんの訳は非常に読みやすく、よくできていると思う。だが、ほんだきんいちろう氏の訳を読んだとき、最後のページで涙が溢れ出た。少なくとも僕の中では、「おおきな木」は、ほんだきんいちろう氏の文章でなければおさまりがつかない。それ以外の訳は受け入れられない。

何のために新訳を出すのか。そも、それは旧訳を葬るに足る大きな理由たりえるのか。駄訳を葬るならばかまわない。だが美しい後世に残すべき訳を、単なるネームバリュー重視の平凡な新訳によって葬ることの是非をもう少し出版社(と、そして翻訳を請け負った作者たち)に考えてもらいたいと思うのだ。


ちなみに。
書店でこの本を購入しようとすると、「村上春樹さんのじゃないですよ? 村上さんのでなくていいんですか? 本当にいいんですか?」と、くどいほどに念を押されてしまった。たとえ訳者と出版社にその意図がないとしても、こうして旧訳は消えていく。

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