怪しいお米・セシウムさん事件
東海テレビの例の事件があちこちに波紋を広げている。2011年8月4日の情報番組「ぴーかんテレビ」という番組内で、岩手産お米の当選者発表のフリップに「怪しいお米セシウムさん」などと書かれたものが表示され、そのまま電波に乗って流れて行ってしまった事件だ。
そりゃあ、この時期に、こんなもんを電波にのっけて流したりしたらどうなるか、誰だって想像がつく。厳しい批判もこれはやむをえないだろう。――ただね、どうもちょっとばかり批判する側も調子に乗りすぎていやしないか、という気もするのだ。あまりに「こいつらを許すな!」的な主張ばかりで、「まぁ、こいつらも反省しただろうしさ、ぼちぼちこのへんでもういいじゃない」といった、横丁のご隠居のような人が出てくる気配が全くない。いくらでも叩けるだけ叩いてしまえ、という雰囲気があるのが僕には気になったのだ。
なので、あえてこいつらを擁護する意見を書いてみたい。
確かにね、こいつらのやったことはしょうもないことだよ。だけど1つ忘れてはならないのは、こいつらの犯した罪は、「悪乗りしたフリップを書いたこと」ではない、という点だ。彼らが犯したのは、「本来、本番では流れてはならないはずのリハーサル用フリップを、誤って本番で出してしまったこと」のみだ。フリップを間違えた、それだけのはずだ。そこに「怪しいお米セシウムさん」と書かれていたことが問題になっているが、これは本来、彼らの「罪」ではない。
そりゃ、この時期に、たとえリハーサル用だといっても、こんな名前を書くのはどうかと思う。悪乗りしすぎている。そう、これは「悪乗り」であって、それ以上でも以下でもない。本番でこれを流そうと画策したわけでもないし、悪意ある内容を番組で流そうと意図したわけでもない。ただ、勘違いをした。そして間違って出してしまったものが、本来なら絶対に表にはでてこないはずの、変に悪乗りして作ったものだった。そういうことだろう? 最初から本番用にこんなフリップを作って、「ごめんなさーい、ジョークでしたぁ!」とやったら、そりゃあ大問題だ。だが、そうじゃないだろう?
この時期にこのような表現なんて、たとえリハーサル用のものといっても神経を疑う。――そうか? 本当にそうだろうか。いかにもやりそうじゃないか、テレビのスタッフなんて。気の置けない仲間内で、悪い冗談とは思いつつもつい最近のできごとを悪乗りしてああだこうだということ、あるだろう? それと同じことじゃないだろうか。これが表に出なければ、別になんてことなかったのだ。
「たとえ仲間内の悪乗りでも、いっていいことと悪いことがある」という意見もある?――いいや。断じて! 仲間内で、いっていいことと悪いことなんてない。どんなことでも気を使うことなく口にできる、それでこその仲間だろう。仲間内であっても、口にする言葉にも注意しなければならない? それが当たり前? ご冗談でしょう。そんな社会、僕はイヤだ。
リハーサル用なんだから、不謹慎なフリップを作って遊んだっていい。そうしたノリで、面白い番組ができるんなら全然構わないはずじゃないか? 表に出てきさえしなければ。――テレビは、特にバラエティー番組なんていうのは、はっきりいえば「遊び」だ。そして「遊び」の世界では、世の中のちまちまちまちました小市民的な感覚をすぽーんとすっとばして行動できたほうがよいものが生まれたりするものだ。例えば、歌手にしろ、役者にしろ、作家にしろ、昔は豪放磊落、世間の常識なんざ無視した、ほとんど無頼の徒のような人間が多かった。そして、そういう人間のほうが、よりよい娯楽を生み出せたりしたものだ。――それが昨今、こうした「遊びの世界」にまで、せせこましいルールやマナーを押し付け、それで評価をするような風潮があるのが僕は非常に不快だ。
「遊び」を生業とする人間に、社会的な常識だのモラルなどというものを求めてどうするのだ。もちろん、法律は守らなきゃならないし、それなりの常識があってくれたほうが良いとは思うが、しかしもっとも重要なのはそんなものではないはずだろう。
「いいえ。たとえ遊びを生業とする人であっても、ルールはもちろん、マナーも社会の常識もきっちり守り、人々の模範となるべきです!」といった意見を真顔で平然と口にする、そっちのほうが僕は怖い。そんなつまらぬことで糾弾されるのが当たり前な世の中なんて、そのほうがぼくは恐ろしい。別に人を殺したわけでもなく、金を盗んだわけでもない、ただちょっと失敗しただけの人間を、何をみんなそんなに眉を吊り上げて、相手を引きずり降ろそうと手ぐすね引いて待ち構えているのだ? 「悪事」と「失敗」は違うだろう?
彼らのしたことは確かにまずかった、だがそれは「悪事」じゃない。たかが「失敗」だ。たかが失敗をよってたかって「悪事」に仕立て上げようとするのはもうやめようぜ。失敗したらどうなるか、それは、した本人たちが一番よくわかっている。それで十分だ。それ以上の非難糾弾は、するほうが「悪事」だと僕は思うんだがな。
そりゃあ、この時期に、こんなもんを電波にのっけて流したりしたらどうなるか、誰だって想像がつく。厳しい批判もこれはやむをえないだろう。――ただね、どうもちょっとばかり批判する側も調子に乗りすぎていやしないか、という気もするのだ。あまりに「こいつらを許すな!」的な主張ばかりで、「まぁ、こいつらも反省しただろうしさ、ぼちぼちこのへんでもういいじゃない」といった、横丁のご隠居のような人が出てくる気配が全くない。いくらでも叩けるだけ叩いてしまえ、という雰囲気があるのが僕には気になったのだ。
なので、あえてこいつらを擁護する意見を書いてみたい。
確かにね、こいつらのやったことはしょうもないことだよ。だけど1つ忘れてはならないのは、こいつらの犯した罪は、「悪乗りしたフリップを書いたこと」ではない、という点だ。彼らが犯したのは、「本来、本番では流れてはならないはずのリハーサル用フリップを、誤って本番で出してしまったこと」のみだ。フリップを間違えた、それだけのはずだ。そこに「怪しいお米セシウムさん」と書かれていたことが問題になっているが、これは本来、彼らの「罪」ではない。
そりゃ、この時期に、たとえリハーサル用だといっても、こんな名前を書くのはどうかと思う。悪乗りしすぎている。そう、これは「悪乗り」であって、それ以上でも以下でもない。本番でこれを流そうと画策したわけでもないし、悪意ある内容を番組で流そうと意図したわけでもない。ただ、勘違いをした。そして間違って出してしまったものが、本来なら絶対に表にはでてこないはずの、変に悪乗りして作ったものだった。そういうことだろう? 最初から本番用にこんなフリップを作って、「ごめんなさーい、ジョークでしたぁ!」とやったら、そりゃあ大問題だ。だが、そうじゃないだろう?
この時期にこのような表現なんて、たとえリハーサル用のものといっても神経を疑う。――そうか? 本当にそうだろうか。いかにもやりそうじゃないか、テレビのスタッフなんて。気の置けない仲間内で、悪い冗談とは思いつつもつい最近のできごとを悪乗りしてああだこうだということ、あるだろう? それと同じことじゃないだろうか。これが表に出なければ、別になんてことなかったのだ。
「たとえ仲間内の悪乗りでも、いっていいことと悪いことがある」という意見もある?――いいや。断じて! 仲間内で、いっていいことと悪いことなんてない。どんなことでも気を使うことなく口にできる、それでこその仲間だろう。仲間内であっても、口にする言葉にも注意しなければならない? それが当たり前? ご冗談でしょう。そんな社会、僕はイヤだ。
リハーサル用なんだから、不謹慎なフリップを作って遊んだっていい。そうしたノリで、面白い番組ができるんなら全然構わないはずじゃないか? 表に出てきさえしなければ。――テレビは、特にバラエティー番組なんていうのは、はっきりいえば「遊び」だ。そして「遊び」の世界では、世の中のちまちまちまちました小市民的な感覚をすぽーんとすっとばして行動できたほうがよいものが生まれたりするものだ。例えば、歌手にしろ、役者にしろ、作家にしろ、昔は豪放磊落、世間の常識なんざ無視した、ほとんど無頼の徒のような人間が多かった。そして、そういう人間のほうが、よりよい娯楽を生み出せたりしたものだ。――それが昨今、こうした「遊びの世界」にまで、せせこましいルールやマナーを押し付け、それで評価をするような風潮があるのが僕は非常に不快だ。
「遊び」を生業とする人間に、社会的な常識だのモラルなどというものを求めてどうするのだ。もちろん、法律は守らなきゃならないし、それなりの常識があってくれたほうが良いとは思うが、しかしもっとも重要なのはそんなものではないはずだろう。
「いいえ。たとえ遊びを生業とする人であっても、ルールはもちろん、マナーも社会の常識もきっちり守り、人々の模範となるべきです!」といった意見を真顔で平然と口にする、そっちのほうが僕は怖い。そんなつまらぬことで糾弾されるのが当たり前な世の中なんて、そのほうがぼくは恐ろしい。別に人を殺したわけでもなく、金を盗んだわけでもない、ただちょっと失敗しただけの人間を、何をみんなそんなに眉を吊り上げて、相手を引きずり降ろそうと手ぐすね引いて待ち構えているのだ? 「悪事」と「失敗」は違うだろう?
彼らのしたことは確かにまずかった、だがそれは「悪事」じゃない。たかが「失敗」だ。たかが失敗をよってたかって「悪事」に仕立て上げようとするのはもうやめようぜ。失敗したらどうなるか、それは、した本人たちが一番よくわかっている。それで十分だ。それ以上の非難糾弾は、するほうが「悪事」だと僕は思うんだがな。