とあることで、本日あれこれ検索していたら、ちょっと驚くようなものを見つけてしまった。かの武田邦彦教授のブログだ。
これを読んでぶっとんでしまった。何が驚いたといって、パルシステムが現在やっていないことを「こんなことをやっている」と非難し糾弾するような記事を大学の教授が書いて平然としていることに、だ。この記事で、武田先生が「パルシステムはこんなひどい態度だ」と指摘していることは、すべて誤りだ。過去、そうした方針を一時とったことは事実だが、多くの会員などの指摘からその後方向転換、今ではもっとしっかりと食品の被曝について考えている。パルが完全とは言わないし、僕もパルシステムには言いたいことはいろいろあるが、少なくとも今回の対応については、それなりにしっかりやっていると思っていた。それだけに武田先生の記事はショックだった。パルの対応については以下のリンクの通りだ。
その後の追加記事で、武田先生もパルが現在は方向修正していることに言及していた。が、『「政府に要求する、検討する」となっているだけで、現実には暫定基準を適応していると理解しました。』とのこと。実際にWebサイトをチェックすれば、今月にも政府に要請書を出したり、農畜水産物の汚染状況をサイトで定期的に更新するなど、現状でできる範囲内で最善を尽くそうと努力していることはなんとなくわかるはず。それなのに「なんかやってるみたいだけど、何も違いはない。ダメ!」という判断は、一体どこから湧いて出るのだろうか。
そもそも生協というものがどのようにして誕生し発展してきたのか、その有り様を考えたなら、生産者をすべて「汚染されてる、ダメ!」と切り捨てることは自身の存在意義に関わることであるのに気づくはず。生産者を守り、なおかつ消費者への被害を未然に防ぐにはどうすべきか。そのはざまでパルシステムはぎりぎりの判断をしているのだと思う。そのことは、Webにアップされているさまざまな報告からなんとなく感じ取れる。少なくとも企業(生協が一般の企業と同じかは置くとして)には企業としての責任というものがあり、消費者のことを考えるのは大切だとしても、パルシステムを信じてやってきた多くの生産者が首をくくるようなことになったとしたらそれが正しいやり方とはとても思えない。企業は、大学の教授のように言いっぱなしで責任を取らずに済む人とは立場が違うのだ。
まぁ、武田先生の記事については、おこう。そもそもこの先生は、もともと情報をきちんと調べもせず、聞きかじりの断片だけで「こうだ!」とやたら切れ味のいい切り口でばっさばっさと人や組織をぶったぎって、その責任を一切負わない、というスタンスでブログを書いている人だ。今更、この先生にあれこれいっても仕方あるまい。読み手が「この人はそういう人だ」ということを念頭において、その記事を読むしかあるまい。
……ところが、念のためにと思って検索してみると、この記事を転載し、パルシステムを非難するブログが、あるわあるわ、山ほど出てきてしまったのだ。武田先生の影響力の大きさたるや、たいしたものだ。が、こんな「百害あって一利なし」な発言を次々と伝搬されてしまうとは……。一体、どういうつもりで、こんなことをするのか。
僕でさえ、ちょっと検索すればパルシステムのWebサイトから、実際にパルがどのように判断し動いてきたか、あっという間に調べることができた。なぜ、これら武田先生の記事を転載しているサイトは、自分で調べようとしないのだろう? ちょっと調べれば、「あれ? パルシステムって、先生が言ってるのと違って、割とちゃんと活動しているじゃん?」ということに気がつくはず。ところが、見つかるブログは、ごくごく一部のものを除いて、皆揃いもそろって武田先生の記事を引用し「パルシステム許すまじ!」といったトーンで全編貫かれているのだった。
つまり、彼らにとって「真実」は、別にどうでもいいのだ。本当はどうなのか、そんなことには全く興味はないのだ。彼らにとって重要なのは「信じる」ことなのだ。――そう考えるしかない。
本当のことを知りたい。そう思うなら、どのような情報であれ(それが自分にとって素晴らしく都合のいいものであれ)、とりあえずはそれが本当かどうか確認するだろう。そして集められた、自分にとって都合のいい情報も悪い情報もすべて取り揃え、どれをどう判断すべきかを考えるだろう。「調べて、確認し、そして考える」という過程なしに、人は真実に辿りつけることなど決して無いのだから。
「本当のことを知りたいと本気で思ってます! でも調べるのは面倒臭いからやりません」というのは、そもそも「本当に知りたい振りをしているだけ」でしかない。「本当のことを知りたいんです! でもやり方がわかりません」というのは、やろうとしない自分をただ言い訳しているにすぎない。真実への探究心というのは、その程度の障碍で押さえ込めるものではないのだ。
無論、そうすれば必ず本当のことがわかるわけではない。調べても重要な情報にたどり着けず、いい加減な情報に惑わされることだってる。集まった情報の判断が誤ることもある。考えが未熟で稚拙な結論に至ることもある。僕にしたところで、様々な疑問で辿りつく結論の多くは、識者からすれば幼稚なものばかりに違いない。――だが、少なくとも「可能な限りそうしようと試みる人」と、「最初からそれらを放棄し、ただ自分に与えられたものを無条件に信じる人」とは、たとえ同じ結果に至ったとしても同じではない。断じて!
震災以後、不安な日々が続く。不安定な中に閉じ込められ続けると、どうしても「これが真実だ」というものに飛びつき、安心したくなる。信じる事は心地よい。それに対する異論反論は、信じる本尊がすべて相手をしてくれる。信じる側はそうしたものに関わることもない。信じていれば確かに安楽な日々が一時は訪れるだろう。
だが、その「疑うな、○○のいうことをそのまま信じておけばいいんだ」という姿勢こそが、現在の状況を生み出す原因となっていたのではなかったか。信じるのをやめ、それぞれが自分で情報を吟味し、考え、判断していれば、このような状況には至らなかったのではなかったか。
「原発」という本尊を捨て、「反原発」を信じれば幸せになれるのか。――否。何であれ「信じる」ことをやめない限り、世の中は決して良い方向には変わらない。このことだけは、僕は無条件に「信じる」。
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