説明責任なんてあるもんか

どうも最近、ネットの世界である種の「数の暴力」のようなものが増えつつある気がする。以前から、いわゆる「炎上」というやつで、ブログなどにやたら誹謗中傷のコメントがどっと付いて騒ぎになったりしたことはあるのだけど、そうした傾向が更に強烈になってきつつあると思うのだね。まぁ、芸能人のブログなどでそうした炎上が起こるのはある意味やむを得ない面もあるだろう。が、最近ではごく普通の一般人ですら標的にされることが増えつつある。

この種の騒ぎで、燃料を投下する側に(更には投下される側にも)回ったことがないので、どういう心理かよくわからないのだけど、それらでよく見られるのが「説明責任」というやつだ。

「説明責任を果たせ!」

昨今の政治流行語?の影響ですかねこれは。この言葉は、火をつけて回る側の大義名分として今や非常に重要なウェイトを占めているように思える。この「説明責任」の4文字が、彼らの活動を正当化しているように思えるのだ。



「説明責任」――この言葉はしごく便利だ。なんとなれば、悪くない相手も、これで攻撃することができるからだ。

以前は、この種の炎上は「違法行為」に対して、ぐらいだった。それがしばらく前から「違法ではないけれど道義的な責任がある」というものにまで拡大された。そしてちょっと前には、「道義的な責任とまではいわないけど、まぁあんまりほめられたこっちゃないこと」にまで使われ始めた。そして今では、「相手には悪いことなんてないけどオレは気に食わないんだ」といったものまで平然と「説明責任」なんて言葉が使われるようになりつつある。

これが、例えば政治家の公約だの、著名人の公的な発言だのといったものになれば、それが世間に与える影響に見合った分だけの説明責任はあるだろう。だが、個人がやってるようなブログで、どこの誰かもわからない人間のツッコミに対し「説明責任を果たす」義務など微塵もあるわけがない、と僕は思う。

「説明責任を果たせ」――この言葉を投げつける側というのは、実は「説明責任を果たす」ことなどこれっぽっちも期待しちゃいないのだ。それが証拠に、万が一、きっちりと説明責任を果たされてぐうの音も出ないほどに完璧な論を展開されたりしたら、返って逆効果になってしまったりする。人の尻馬に乗って誰かを糾弾していた人間が、論理的に明快に反論されてしまったりするとかえって逆上するのを誰しも見たことがあるはずだ。

僕がこの「説明責任」という言葉を不快に感じるのは、それが「自由な言論を妨げる枷」となりつつあるのを感じるからだ。何か発言すれば、大勢の人間による突き上げを受ける。その1つ1つに丁寧に反論なり応対なりをしないと、「説明責任を果たしてない」とこっちが悪者扱いされる。そうしたことを経験すれば、「何も発言しないほうがマシだ」となる。黙っていれば、突き上げられることはない。それだけならまだしも、逆に「突き上げる側」に回ってしまう人もいるかも知れない。

どこかのブログが炎上し、無数の辛辣なコメントが付いているのを見ると、「これが自由な討論といえるのか?」と思う。一人の人間に対して数十数百人の悪意。「そのぐらいのコメントに返事ぐらい書けるだろう」というのは想像力の欠如だ。数十のコメントに返信することは誰にでもできる、だが数十の悪意を一身に受けることは誰にでもできることではないのだ。

そんなくだらないことで精神的に追い詰められるなんてバカらしいにもほどがある。だから、すべての「説明責任を果たせ」と責められている人(公的立場の人を除く)へ。

「説明責任」なんて、果たすな。
「説明責任」なんて、そんなものは、ないのだ。

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