3月11日に、幸せだったあなたへ

大地震で崩壊した町の中、生まれた赤ん坊を取り囲む家族をAIに描いてもらった。

昨日、3月11日。NHK広報局がtwitterで以下のようなコメントを出したのが騒ぎになっているという。

「3月11日は悲しい日になりました。多くの方にとって、決して忘れることのできない日になるでしょう。でも、だからこそ、あえてツイートします。毎日が必ず何かの日です。だから今日が誕生日の皆さん、おめでとう!!だから今日が記念日の皆さん、おめでとう!!」

これが炎上してえらいことになっているそうだ。といっても、実はこれ、ツィートしたのは去年のこと。それがなぜか1年たった今になって注目され炎上となったらしい。――確かにNHKの広報がツイートする内容とはとても思えない内容だ。これを投稿した広報局の人間にどうしても一言いいたい。

素晴らしい!!

よくやった。僕はもう長いことNHKを見てない(というかテレビ自体を見てない)ので今のNHKがどういうスタンスかよくわからないけど、こういう視点を持つ人間が局内にいるというのは立派なことだと思う。

これに対し、非難する人間がいることのほうが理解できない。別に、東日本大震災で被害にあった人に「おめでとう」といってるわけではない。またNHKのテレビやラジオの放送で発言したわけでもない。広報局のtwitterという、「一応NHKの公的発言だけど、まぁ比較的お遊びなどゆる~い発言が許されるところ」で、「今日が誕生日の皆さん」「今日が記念日の皆さん」に限定して、「おめでとう」といっているだけじゃないか。こういう日だけど、でも今日がハッピーな人もいるよね、そうした人にこっそりと「おめでとう」という気持ちを伝えたっていいよね――それがなぜ非難されねばならないのか。

「なにもよりによってこんな日に……」と思うかもしれない。だが、こんな日だからこそ、あえてツィートしたこの人間の行為は立派だった。日本中が哀悼一色となり、それ以外の幸せな色調を許さない空気の日だからこそ、あえて「おめでとう」と発したその言葉に意味があったのだ。


……僕ら一家は、まさにこのツィートのような環境におかれいた。うちの子の誕生日は、9月11日、あのニューヨークテロの日だ。テロの翌年から何年もの間、我が家は子供の誕生日をおおっぴらに心から「おめでとう!」といえなかった。今でも、なんとなく「うちわではいいけど、おおっぴらにはちょっと、ね……」という空気を感じる。心から祝ってはならない、そういう雰囲気がある。これは多分、当事者にしかわかない。「祝ってはならない日に幸せを得てしまった人間」にしか。

我が家は、一体、いつになったら心から子供の誕生日を祝うことができるのだ? 3・11に生まれた子がお友だちを呼んで盛大に誕生パーティをできるようになるのはいつだ? 阪神淡路大震災の日はもういいのか? それは誰が、いつ決めるんだ?

「お前はあれだけ大勢の人々が犠牲となったことに何の痛痒も感じないのか!」と腹を立てた人。では聞こう。例えばツィートやブログの冒頭に「犠牲者の皆様に……」と書けば、それで心を痛めていることになるのか?

そもそも、「哀悼の意」というのは、どう表すのが「正しい」のだ?

原発事故で慌てて西日本に引越し、瓦礫の受け入れに声を嗄らして反対し、「東北の野菜は食べないようにしましょう」という人がブログに「心からの追悼の意を……」などと書く、それが正しい「哀悼の意」の表し方なのか。恥ずかしくないのか?と僕などは思うのだが、そう思うほうが変なのか。そんな連中より、このNHK広報局の人間のほうがはるかに人にやさしいと思うのはおかしいのか。

もちろん哀悼の意を表す人を責めるつもりはない。ただ、そう書くことで、なにか免罪符を得たように思っている人があまりに多くはないか。そして、そうしなかった人を責めるのは正しいことなのか。何か追悼・哀悼といったものが形式主義に堕してはいまいか。それが本当にかの震災を真摯に受け止めるということなのか。


1年365日、常に世界の何処かで悲劇は起こり続けている。僕らは日々、「悲劇の取捨選択」をしながら生きている。誰もが、どこかの誰かにとっては身を裂かれるほどの悲劇をまるで知らずに暮らしている。

しばらく前に、安倍総理がサンフランシスコ講和条約の日を国の記念日にしようといった発言をしていて、沖縄県民の怒りを買った、という出来事があった。沖縄以外の日本人の大半は、それを「悲劇の日」としてではなく「祝うべき記念日」として認識していた。そう、沖縄を売って日本の独立を買った日を。

立場によって悲劇の取捨は変わる。3・11にも、結婚する人も、子供が生まれる人もいるだろう。「おめでとう、3・11」と♡をいっぱいつけて記事をアップしたい人もたくさんいるだろう。そうした人が、3・11を「不幸な日」ではなく「幸せな日」として捉えることを誰が非難できるのか。

この世に、誰かの幸せを犠牲にして成り立つ「何か」が価値を持つことなどない。多くの幸せな人々を犠牲にして成立する追悼など何の価値もない。

3・11。僕は、幸せな出来事があれば祝う。そのことに何の痛痒も感じない。そして、3・11以外の1年364日間いつであれ、思うことがあれば亡くなった方々への弔慰を心より表す。それが僕流のやり方だ。


――3月11日に何か素敵なことがあったあなたへ。僕からも伝えよう。「おめでとう!!」

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