「歴史の街」とは

佐倉に来て、つくづくと感じるのは、ここが「歴史の街」だ、ということだ。我が家の周辺はそうでもないが、佐倉の城下町だった旧市街のほうにいくと実に歴史を感じる。古い建築物や家々がきちんとメンテナンスされ残っているということもあるのだけど、それ以上に感じるのは、「歴史」への対峙の仕方だ。

これまで住んでいた市原市も、実は「歴史」を売り物にしている。市原は、菅原孝標が赴任してきた地であり、ここで菅原孝標女により更級日記が書かれている。また上総国分寺のあった地であり、更に遡れば弥生末期の出土と言われる「王賜銘鉄剣」が発掘されたことでも有名な地だ。だが、歴史への対峙の仕方は佐倉とは大きく異る。

市原市にとって、歴史は「観光で金を産むための材料」に過ぎない。歴史的価値という点でいえば、もっとも価値があるのは王賜銘鉄剣だろうが、これは観光客を呼べないのでほとんど重要視されていない。上総国分寺は現存しており、国分尼寺は発掘調査され展示館があるが、それほど宣伝されていない。

市原市が何より力を入れるのは、「更級日記」というブランドだ。なにしろ、有名で誰もが聞いたことがあるのだから。区画整理によりきれいに作られた大通りに「更科通り」と名前をつけ、秋には市を上げて「上総いちはら国府祭り」というのを開催して観光客の誘致をはかる。

だが、この国府祭りで行われる時代絵巻行列を見て、僕は頭を抱えたのを覚えている。それは、そこいらから寄せ集めた時代劇風衣装を来た人間がただ歩くだけのものだった。それは、更級日記とは何の関係もないイベントだった。

だいたい、歩いている男たちがみんな戦国時代以降の甲冑のフェイクを身に着けている。また刀は太刀ではなくいわゆる日本刀で、当然、「佩く」のでなく、脇に「差し」ている。更級日記の上総への道中姿をイメージしているらしき女性たちはすべて現代の和服であり、平安装束は微塵も見られないのだった。

要するに、誰もまじめに時代考証をしようとは思っていないのだ。これはただの人寄せのイベントであり、歴史とは何の関係もないものなのだ。だったらハナから時代絵巻行列などしなければいい。巨大山鉾やよさこいダンスなどを寄せ集めた、歴史などとは無縁のお祭りにすればいいだろう。「更級日記の街」などという看板をさっさと取っ払って。

大枚をはたいて作った巨大な山鉾など作る金があったら、その費用を少しでも歴史考証に回したなら、もう少しマシな時代絵巻行列ができただろう。だが、そうはしなかった。「そんなのにカネかけたって、見にきてる人間にはどうせわからないさ」ということなのか。つまりは、市原市にとって歴史とは「カネになるかどうか」がすべてなのか。

佐倉市には、旧堀田邸をはじめとする武家屋敷がいくつか保存されている。それだけでなく、町中にある和菓子屋などの店がどれも明治大正あたりの古い建物そのままに営業していたりする。それは、「そうすれば客が集まりカネになるから」だろうか。

町中の古い建物には、由来などが書かれていたりする。それらを読んでいくだけで、この町の歴史が見えてくる。蔵六餅本舗木村屋(和菓子屋さん)などは江戸後期に建てられた蔵とその所蔵物を一般公開して、これがプチ博物館になっていたりする。また時代カフェ茶琴神明というところは、明治時代にカフェオーナーの曽祖父が建てた家をそのまま改装し営業している。

この街は、昔から受け継いできたものを次へと受け渡す、ということをおそらくはるか昔から当たり前のようにやってきた人々がたくさんいるだろう。それら一つ一つは、「更級日記」のようなネームバリューもなく観光資源にはならないかも知れない。が、そうした一人ひとりが先の代から受け継いできたものを大切にし続けることが、「歴史の街」の源となっているのだ。

観光資源となりそうな「歴史」が街にあったとしても、それを注意深く大切に次の世代へと受け継いでいこう、という思いがなければそれはあっという間に廃れてしまう。歴史を大切にしようという思いが見えない「歴史の街」など意味がない。「刀を差す」ことと「太刀を佩く」ことの違いもわからない人間たちが「歴史の街でござい」と作りだした祭りが、せっかく受け継いだ歴史を殺そうとしていることになぜ気がつかないのか。

受け継いだ歴史を、大切に次世代へ渡そうとする街。
受け継いだ歴史を、自分に残された遺産と考え消費する街。

同じ「歴史の街」といっても、その取り組み方はまったく違う。どちらが正しいとか、どちらがすぐれているとかいったことはないだろう。ただ、「好きか嫌いか」は誰しもある。佐倉に引越して本当に良かった。

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