弓矢の先生
今日は昼から娘が「公園に行きたい!」というので、少し遠くにある公園へと自転車で出かけた。そこは割と広い敷地で、ほぼ自然のままに草っ原だの小さい池だの林だのがある。で、ロープで木やタイヤを木の枝に吊るしてブランコにしたりしてるんだな。
行ってみると、既に何人か子どもたちが遊んでいた。男の子たちは、なにやら弓矢のようなものをもって遊んでいる。「ほほー」と思い、聞いてみると、どうやらそこにある小屋に、遊び道具としておいてあるらしかった。
市やなんとか団体やらいうところが、定期的にそこで「自然の中でのびのび遊ぶイベント」みたいなことをやっている。それで、池に筏を浮かべたり、竹とんぼだのシャボン玉だの、いろいろな遊びをそこで子どもたちが体験できるようにしてるのだな。それはそれでいいことだと思う。僕も前に子供を連れて遊びに行ったことがある。気楽に野山で遊べなくなった昨今、こうした自然の中で遊ぶ機会は貴重だ。
だがしかし、そこで見た光景が、僕にはどうも納得が行かなかった。「弓矢、的当てゲーム、1回50円」――かちん、と僕の中のどこかでスイッチの入る音が聞こえたのだ。「反骨」というスイッチが。子どものためと称する団体が、子どものためのあそび場所を提供する。そこで、1回50円。気にいらないな。オレは断じて気にいらない。
娘が同じ学校の上級生たちと遊んでいる間、家に取って返し、のこぎりとナイフとナイロン紐を探してきた。そして夕方まで、そのへんにある竹を切り、適当なサイズに割り、紐で縛って、弓矢作りをした。できた弓矢は、そのへんで遊ぶ男の子たちに投げてやった。「僕にも欲しい」というやつには、次々作ってやった。
この次に、子どもたちのイベントとやらをやってるなんとか団体の人間が来たら仰天するだろう。子どもたちは手に手に自分の弓矢を持って集まってくるのだ。ざまあみろ。もうこのへんの子どもたちは、50円も払って弓矢ゲームをするやつなんかいない。
世の中には、立派なこと、正しいことを行っている、立派な人たち、正しい人たちがいる。それはそれで立派だし、正しいんだろう。だが、総論は正しくとも、実際には首を捻るようなことになってる例もけっこうある。だが、前面にばーん!と御立派な御託を掲げられてしまうと、なかなかそこに面と向かって文句はいいにくくなってしまう。
正しいことに反対する勇気が欲しい。立派なことを批判できる勇気が欲しい。真剣な目で弓矢をはじいて「うん、これは引きが強いな」といっぱしのことをいうようになったおまえたちには、そういう大人になって欲しいと、「弓矢の先生」(←気がつけばこう呼ばれてた)は思うのだ。大人になると、「正しい、立派」という錦の御旗にからきし弱くなってしまうから。おまえらに渡してやったのは、弓矢だけじゃないつもりだ。そのことにいつか気づいてくれ。そして大人のお題目を鼻で嗤う、小生意気な若造に成長してくれよ。