経験しない批評に意味はない

まぁ、最近、いろいろあってなんとなく「なんだかなぁ……」と思うようになったのだけど。

人間ていうのは、自分に縁遠いものほど安易に批評できるものなんだろうか。

例えば、ネットではさまざまなことに関する批評・批判が転がっている。身近な人もあるし縁遠い人もいるような分野というと……そう、例えば音楽。ピアニストやバイオリニスト、チェリストなどの演奏について、ネットではさまざまな批評批判が公開されている。

が、そうした人の多くは、「自分ではピアノを弾かない、バイオリン、チェロを弾かない人たち」であるのに気がついた。もちろん、自分で演奏するし、なおかつ批評批判をする人もいる。が、そうしたものは、読んでいてこっちも割と得心することが多い。それに対し、自分で演奏しない人の批評批判は、はっきりいって「単に自分の知識や見識をひけらかしたいだけじゃないの?」てなものが多いように感じてしまうのだ。

「あのな。それじゃあお前は、ピアノが弾けない人間に、ピアノについて批判する資格はない、っていいたいのか? そういう、一部の特殊な技能を身につけた人間たちだけがあれこれする資格があるといった発想がどうのこうのではちのあたまなのだ」

……と思った人。いや、そうじゃない。僕は別に、ピアノを「プロのように演奏出来る人」だけが批評の資格がある、とはいってない。ピアノを「演奏する人」でなければ批評する資格はないのでは?といってるのだ。この違いは大きいぞ。なぜって、実は「ピアノを演奏する」のは、別に特殊なことでも何でもないからだ。

「冗談じゃない。子どもの頃、ピアノを習っていない人間だってたくさんいるんだ」

その通り。僕も、ピアノなんて習ったことはない。同様に、バイオリンもチェロも習ったことはない。楽器を習ったことなど生まれてこの方、一度もない。だけど僕はバイオリンが好きで、チェロが好きで、ピアノが好きで、好きだとどうしてもその音を自分で奏でてみたくて、高校の頃、お年玉と小遣いをはたいて鈴木の一番安いバイオリンを買ったり、スーパーでバイトした金でドイツの木製リコーダーを買ったりした。今でも、どれもまったくモノになんてなってない。

だが、実際に自分で「弾いてみよう」と思い、拙いが練習してみたことで、自分でやっていなかった頃には気づかなかったことにずいぶんと気づかされた。細かな演奏に関すること(例えば、バッハの無伴奏チェロは、譜面を読み運指やボーイングをいかに解釈すべきかということまで考えたとき、初めて「ああ、だからこう演奏するのか! エウレカ!」と思ったり)もある。

だが、それ以上に明確に理解できたのは、「世のあらゆる演奏家たちは、少なくとも自分などよりはるかに高度にその曲を理解しているのだ」ということだ。

プロの演奏家は、幼い頃から長い時間をかけて訓練をしてきている。演奏技術、曲の解釈、感情表現、あらゆるものについて考え、試し、自分のものとしてきている。この世のどんなにすぐれた批評家であれ、その人が身につけているのはせいぜい「曲の解釈」に過ぎない。

すべての、人間の身体を使って表現するものは、実際に体を使ってそれを表現しなければ理解できない世界を内包している。「体で理解する」というやつだ。それは、同じ「体で理解する経験」を持つ人間でなければ決して感じることのできない世界だろう。

例えば、自転車に乗れない人間が、自転車の乗り方について本当に理解出来るだろうか。自転車の乗り方についてあらゆる本を読み「私は完璧に理解できる」という人より、実際に自転車に乗れる人のほうが遥かに「自転車にのることの本質」を理解しているとは思わないか?

例えば、自分でつくづくと「経験する前の自分のバカさ加減を思い知らされた」なぁと思うのは、「結婚し、子供を持つということ」だ。まさか、こんな世界があったとは。独身時代、あれこれと「結婚し子供を持つ」ことについていっていた気がするが、それはすべて「まったく何もわかっちゃいなかった」ことを思い知らされた気がする。

そういうことって、あるだろう? 頭の中であれこれ考えていても、実際に経験すると全く別の、新しい世界が見えた、ということ。

「経験に勝る知識はない」と僕は考える。それは、知識、見識といったものだけの問題ではない。経験することで、批評批判をする上で必要不可欠な「あるもの」を得ることができるからだ。それは、

「そのことを巧みに行うことのできる人への畏敬の念」

である。ピアノを自分で練習してみて、初めて、「プロのピアニストというのがどれほどに自分とかけ離れたすごい存在か」を肌で知ることができる。「いや、そんなの自分がピアノを弾けなくったってわかる」って? そう、「頭でわかる」ことは確かにできるだろう、だが「肌で感じる」ことは、それは無理だ。

経験していない頃、自分は「理解できる」ことがすべてだと思っていた。「感じる」ことなどさして重要ではないと思っていた。だが、実際に経験してみると、それが誤りだったことに気づく。「理解できる」ことなど、実はさして重要ではなかったのだ。そんなことは、誰だって調べればわかることだ。だが「感じる」ことは、どんなにネットで世界中を検索してもわからない。それは、ただ「経験する」ことでしかわからない。そして、経験したことのない人間には、そのことの重要性がわからないのだ。


が、人は、自分が経験してもいないことについて、知識に基づいて批評し批判する。自分には決して真似できないほどの技術と知識、経験、感性を持った人たちを、せいぜい大人になって身につけたろう貧弱な知識程度で批評し批判する。

情けないことに、そうした批評批判を支持し拍手する人々もいる。そして、そうした人たちの存在が、批評手に「自分の批評は正しいのだ、人々の支持をえているのだ」という錯覚を与えてしまう。時として人は、「そこに表現されているものの本質の価値」ではなく、「それがどう表現されているか」によって、そのものの価値を決めてしまうことがある。きらびやかな表現、端正な文体、それにより「実際にそこに著されているものの真価」をはかることをやめ、「こんなすばらしい文章で表現されているのだから価値ある批評に違いない」と判断してしまう。

かくて、舌鋒鋭いプチ批評家が巷に満ち溢れていく。ピアノを弾けない批評家がピアニストを批評し、チェロを触ったこともない批評家がチェリストを批評する。君はわかっているか? ただ「ラ」の音を出すことがどんなに難しいか。ただ美しい音を出すだけのことがどれほどの長い血のにじむような経験によってもたらされるのか。「知識として知っている」かどうかをいっているんじゃない。

言葉は、大切だ。僕は物書きであり、言葉の力を信じている。が、同時に、だからこそ「言葉の限界」もわかっているつもりだ。この世には、言葉では著しきれない世界がある、ということを。言葉は、世界のせいぜいひとつかみ程度しか表現することはできないのだ、ということを。

すべての批評批判をする人へ。あなたは、その批評する対象を「本当に理解」などしていない。どうかそのことを頭の片隅にしっかりと刻んでおいてください。「自分は、言葉として表現できる程度のことしかわかってはいないのだ」ということを、どうか自戒ください。その対象に対する畏敬の念を、どうか忘れないでください。

批評される側は、批評家などいなくとも生きていける。だが批評する側は、批評される対象なしには生きてはいけない。どんなにすぐれた批評も、その対象となる作品を超えることは決してできない。そのことを、どうか忘れないで。もし、そうしたことを忘れ去ったような批評批判を眼にしたとき、僕は一言申し上げるかも知れない。

「だったら、お前がやれ」と。

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