絶叫デモはテロなのか?
石破氏が、ブログで「デモの絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わりがない」と発言したことがあちこちで話題になっている。折しも、特定秘密保護法案が強引な手法で衆議院を通過したところで、メディアはこぞって、
絶叫デモ→テロと同じ→テロは法案で取り締まる→じゃあデモすれば逮捕か?
といった「風が吹けば桶屋が儲かる」式の強引な理論を振りまいて煽りに煽った。まぁこの時期にこういった発言をすればどうなるか、石破氏ぐらいの人ならわかりそうなものだが、想像以上に世間の風は冷たかったということだろうか。
世間の風向きがすべて「デモはテロと同じなのかよっ!」という発言を非難する方向にきれいに足並みそろえているのをみると、正直、気持ちが悪い。
そんなこと、殊更に主張しなくったって誰にだってわかるじゃないか。デモをしている人間は、絶対にテロリストではない。
彼らが、そんな立派な人間のわけがない。
「デモがテロだと? お前は一般の市民が自分たちで声を上げただけでテロリスト呼ばわりするのか?」という報道をしているメディアは、そもそも「テロリスト」とは何なのか?をきっちりと考えたことがあるだろうか。
何の罪もない一般市民を殺して回る殺人鬼――ではない。それは無差別殺人者であって、テロリストではない。テロリストとはどういう人間を指すのか。Wikipediaにはこうある。
「(テロリズムとは)何らかの政治的目的のために、暴力や暴力による脅威に訴える傾向や、それによって行われた行為のこと。また、恐怖政治のこと。テロリズムを標榜しテロを行う者をテロリストと呼ぶ。」
その通り、政治的な目的のため暴力に訴える人のことだ。特に一般市民を殺すような凶悪なタイプのことを示すのが普通だと思う。そして各国はテロリストを共通の敵として認識しており、時には違法まがいの真似までして逮捕したり特殊部隊が急襲して殺したりしている。国家に対し殺すか殺されるかの戦いを挑んでいる、それがテロリストだ。
国会周辺でデモをしているような人は、テロリストではない。彼らには、テロリストを名乗る資格などない。彼らには、そんな勇気も覚悟もない。
「まるで、彼らを擁護してるみたいだな」――そう。ある意味、僕はテロリストを擁護している。
彼らは、なぜ、自分や自分にとって大切な人々の命をかけてまで、絶対に勝つ見込みの無い戦いを国家に対し挑んでいるのか。「なぜ、彼らはテロを行うのか」を考えずして、その結果のみに注目し「テロ=犯罪、はいおしまい」と思考停止することは僕にはできない。
人は、テロリストに生まれるのではない。テロリストに、なるのだ。
もちろん、暴力という手段を肯定することは断じてできない。それは当然だ。だが、だからといって彼らを「犯罪者、人殺し、社会から抹殺すべきもの」と断罪するのもまた違う気がするのだ。
人は、真っ当な道が残されていたなら、決してテロリストにはならない。正当な方法、当たり前の道がすべて閉ざされ、違法な、凶悪な犯罪者となる道しか残されていないとき、そしてその道を諦めることは命と引き替えにしても断じてできないとき――人は、テロリストの道を歩み始めるのだと思う。
そう。「もうまっとうな手段は残されていないんだ」――そう考えざるを得なくなったとき、にも関わらずどうしてもその道を進むことを諦めきれないとき。人が歩み出すのが「テロリストへの道」なのだ。
間違ってはならないのは、「反正義のためにテロを行うものはいない」という点だ。正義に反する暴力は、ただ単に「犯罪」と呼ばれるだけだ。テロもまた「彼らにとっての正義」を遂行するために行われるのだ。世の中の間違いを正すために行われるのだ。
実をいえば、世の中には「暴力によって自分が正しいと思う道を無理やり進んでも罰せられないもの」がある。それは「国家」だ。米国の大統領が「オレは正しいんだ」と思えば、自国の軍隊を派遣して全く何の罪もない人々を虐殺してもかまわない。国という巨大な集団ならば、暴力はテロではなく「軍事行動」になる。
テロとは、すなわち「個人」もしくは「小集団、弱い集団」といった、その相手と比べ比較にならないほどに弱い力しか持たないものが、圧倒的に強い敵に対して武力闘争する、そういうものなのだ。
そして、テロというのは、実は「絶対的な悪」でもなかったりする。テロが悪なのは、私たちが「テロリストの敵の側にいる」からに他ならない。古くは、中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺から、暗殺の歴史を見ればわかるように、「テロを行った側が権力者となれば、テロは肯定される」のだ。
すなわち、「肯定されないテロ」とは、テロによる戦いを挑み、そして結果的に勝てなかった人々を指す言葉にすぎないのではないか。
例えば、ヒトラーを誰かが殺しとしたら、そのテロは非難されただろうか。
例えば、ビン・ラディンを(軍隊でなく)誰かが殺したら、そのテロは非難されただろうか。
例えば、ブッシュ大統領を、彼に家族や子供を皆殺しにされたイラクの人間が殺したら、そのテロは非難されたろうか。
この3つの間に、何か本質的な違いがあるとは僕には思えない。だがおそらくは、前者2つは肯定され、3つ目は決して認められないだろう。そう考えると、誰もが絶対的な正義として糾弾する「テロ」とは一体、何なのだ?
まっとうなやり方ではもうダメだ。たとえ力ずくでも、正義と信じる道を進むんだ。――もし心の何処かでちらっとでもそう思ったことがあるなら、その通り、あなたはテロリストと本質的に違いはない。たとえ、まだ誰も殺していなかったとしても。
そして、それが果たして本当に「悪」なのかどうか、それは僕にはわからないのだ。テロを行う側も、糾弾する側も、「正義」の美名のもとに暴力をふるう。そこに違いはない。テロが忌むべきものというなら、テロを暴力で潰す行為もまた忌むべきものではないか。
「暴力の神の力を信じ、その前にひれ伏す」――テロリストの本質とは、そういうことではないだろうか。
というわけで、人を傷つけることも辞さないほどの強固な意思を持たないデモの参加者たちは、断じてテロリストではありません。ご安心を。
絶叫デモ→テロと同じ→テロは法案で取り締まる→じゃあデモすれば逮捕か?
といった「風が吹けば桶屋が儲かる」式の強引な理論を振りまいて煽りに煽った。まぁこの時期にこういった発言をすればどうなるか、石破氏ぐらいの人ならわかりそうなものだが、想像以上に世間の風は冷たかったということだろうか。
世間の風向きがすべて「デモはテロと同じなのかよっ!」という発言を非難する方向にきれいに足並みそろえているのをみると、正直、気持ちが悪い。
そんなこと、殊更に主張しなくったって誰にだってわかるじゃないか。デモをしている人間は、絶対にテロリストではない。
彼らが、そんな立派な人間のわけがない。
「デモがテロだと? お前は一般の市民が自分たちで声を上げただけでテロリスト呼ばわりするのか?」という報道をしているメディアは、そもそも「テロリスト」とは何なのか?をきっちりと考えたことがあるだろうか。
何の罪もない一般市民を殺して回る殺人鬼――ではない。それは無差別殺人者であって、テロリストではない。テロリストとはどういう人間を指すのか。Wikipediaにはこうある。
「(テロリズムとは)何らかの政治的目的のために、暴力や暴力による脅威に訴える傾向や、それによって行われた行為のこと。また、恐怖政治のこと。テロリズムを標榜しテロを行う者をテロリストと呼ぶ。」
その通り、政治的な目的のため暴力に訴える人のことだ。特に一般市民を殺すような凶悪なタイプのことを示すのが普通だと思う。そして各国はテロリストを共通の敵として認識しており、時には違法まがいの真似までして逮捕したり特殊部隊が急襲して殺したりしている。国家に対し殺すか殺されるかの戦いを挑んでいる、それがテロリストだ。
国会周辺でデモをしているような人は、テロリストではない。彼らには、テロリストを名乗る資格などない。彼らには、そんな勇気も覚悟もない。
「まるで、彼らを擁護してるみたいだな」――そう。ある意味、僕はテロリストを擁護している。
彼らは、なぜ、自分や自分にとって大切な人々の命をかけてまで、絶対に勝つ見込みの無い戦いを国家に対し挑んでいるのか。「なぜ、彼らはテロを行うのか」を考えずして、その結果のみに注目し「テロ=犯罪、はいおしまい」と思考停止することは僕にはできない。
人は、テロリストに生まれるのではない。テロリストに、なるのだ。
もちろん、暴力という手段を肯定することは断じてできない。それは当然だ。だが、だからといって彼らを「犯罪者、人殺し、社会から抹殺すべきもの」と断罪するのもまた違う気がするのだ。
人は、真っ当な道が残されていたなら、決してテロリストにはならない。正当な方法、当たり前の道がすべて閉ざされ、違法な、凶悪な犯罪者となる道しか残されていないとき、そしてその道を諦めることは命と引き替えにしても断じてできないとき――人は、テロリストの道を歩み始めるのだと思う。
そう。「もうまっとうな手段は残されていないんだ」――そう考えざるを得なくなったとき、にも関わらずどうしてもその道を進むことを諦めきれないとき。人が歩み出すのが「テロリストへの道」なのだ。
間違ってはならないのは、「反正義のためにテロを行うものはいない」という点だ。正義に反する暴力は、ただ単に「犯罪」と呼ばれるだけだ。テロもまた「彼らにとっての正義」を遂行するために行われるのだ。世の中の間違いを正すために行われるのだ。
実をいえば、世の中には「暴力によって自分が正しいと思う道を無理やり進んでも罰せられないもの」がある。それは「国家」だ。米国の大統領が「オレは正しいんだ」と思えば、自国の軍隊を派遣して全く何の罪もない人々を虐殺してもかまわない。国という巨大な集団ならば、暴力はテロではなく「軍事行動」になる。
テロとは、すなわち「個人」もしくは「小集団、弱い集団」といった、その相手と比べ比較にならないほどに弱い力しか持たないものが、圧倒的に強い敵に対して武力闘争する、そういうものなのだ。
そして、テロというのは、実は「絶対的な悪」でもなかったりする。テロが悪なのは、私たちが「テロリストの敵の側にいる」からに他ならない。古くは、中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺から、暗殺の歴史を見ればわかるように、「テロを行った側が権力者となれば、テロは肯定される」のだ。
すなわち、「肯定されないテロ」とは、テロによる戦いを挑み、そして結果的に勝てなかった人々を指す言葉にすぎないのではないか。
例えば、ヒトラーを誰かが殺しとしたら、そのテロは非難されただろうか。
例えば、ビン・ラディンを(軍隊でなく)誰かが殺したら、そのテロは非難されただろうか。
例えば、ブッシュ大統領を、彼に家族や子供を皆殺しにされたイラクの人間が殺したら、そのテロは非難されたろうか。
この3つの間に、何か本質的な違いがあるとは僕には思えない。だがおそらくは、前者2つは肯定され、3つ目は決して認められないだろう。そう考えると、誰もが絶対的な正義として糾弾する「テロ」とは一体、何なのだ?
まっとうなやり方ではもうダメだ。たとえ力ずくでも、正義と信じる道を進むんだ。――もし心の何処かでちらっとでもそう思ったことがあるなら、その通り、あなたはテロリストと本質的に違いはない。たとえ、まだ誰も殺していなかったとしても。
そして、それが果たして本当に「悪」なのかどうか、それは僕にはわからないのだ。テロを行う側も、糾弾する側も、「正義」の美名のもとに暴力をふるう。そこに違いはない。テロが忌むべきものというなら、テロを暴力で潰す行為もまた忌むべきものではないか。
「暴力の神の力を信じ、その前にひれ伏す」――テロリストの本質とは、そういうことではないだろうか。
というわけで、人を傷つけることも辞さないほどの強固な意思を持たないデモの参加者たちは、断じてテロリストではありません。ご安心を。