ウィニーの作者が、著作権侵害の幇助罪に問われていた裁判で、大阪高裁が逆転無罪を言い渡しましたね。第一審ではソフトの利用者が違法コピーを行った場合、その作者に幇助を問えるという判断だったけれど、第二審では「もし作ったからといって罪に問えるとしたら、そのソフトが存在している限り無限に罪に問えることになる」それはちょっとまずいだろう、という判断でありました。
これは、一先ずはよかったと思う。まだ控訴審で判決が確定しているわけではないからね。確かにウィニーによって膨大な違法行為が広まったことは確かなのだけど、「技術を生み出したことそのもの」を罪に問えるとしたら、これは「新しい技術を生むこと」に技術者が不安を感じるようになってしまいかねない。原爆を投下したことにより膨大な被害者を生んだが、その罪を「原爆を作り出した科学者」にすべて負わせることはできないだろう。
「技術」に、罪はない。どのような技術であれ、その技術そのものには罪はない。では、その技術を生み出した技術者に罪はあるのか。――僕は、ないと思う。ただ、その理由は裁判官とは少し異なっている。
僕は、ある技術をある技術者が生み出したのは、「ものすごい僥倖」による結果なのだと思うのだ。技術というのは、ある日、突然、それまで何もなかったところに「ぽん!」と出てくるわけではない。そうした技術が登場する素地のようなものがあり、時間と関連技術が醸成され、いつどこで誰がそれを産み落としてもおかしくない、そういう状況の中で、たまたまそれを研究する多くの中の一人が正解にたどり着いた――そんなイメージを持っているのだ。
もちろん、それを生み出した技術者は、たまたまとか偶然とかいったことでなく、長い知識と経験と試行錯誤の末にそこにたどり着くのであって、「たまたま」ではない。僕が言うのは、「その人が、一番にたどり着く可能性」のことだ。
金子被告がウィニーを開発しなかったら、著作権違反は起きなかったか? いいや、そんなことはなかっただろう。P2P技術は彼以外にも多くの人間が研究していた。彼が作らなかったとしても、近い将来、必ず誰かが同様のものを生み出していたはずだ。それを生み出すに必要な状況は醸成されていた。「誰が産み落とすか」とは関係なく、必ずそれは生まれる時期だったのだ。
「たまたま」彼が、最初にウィニーを開発したがために、彼は逮捕された。彼が作らなくとも必ず誰かが同様のものを作っただろう。であるならば「彼」にそれによって引き起こされるすべての罪を背負わせるのは果たして正しいのだろうか。
誕生すれば罪となる技術の誕生を止めることは、できるのか。いいや、それは誰にも決してとめることはできないだろう。必ず、いつか、誰かがそれを生み出す。そう、「誰か」が。彼でなくても、別の誰かが、その人でなくとも、また別の誰かが、必ずいつの日か産み落とす。「たまたま」それを産み落とした人間を処罰することが、それによって引き起こされるすべての罪を裁くことになりえるのか。
銃を使って人を殺したら、裁かれるのはそれを使った人間だ。作者ではない。ウィニーを使って違法コピーをしたら、その罪を問われるのはコピーした人間だろう。なぜ、この理屈が「ソフトウェア」だと通用しないのだろう。どんな技術であれ、その技術に罪なない。それを「たまたま生み出してしまった者」にも。
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