宮崎駿ちゃんのipad発言に思うこと

ipadを触って嫌悪感を抱く老人をAIに描いてもらった

既に旬を過ぎているけど、ジブリの宮崎駿ちゃんの「ipadこきおろし」発言が、けっこうあちこちで波紋を広げている。まぁ、この人の仕事と考え方からすればそうなんだろうな、と思うのだけど、

「ipadで画面をさすっている姿には嫌悪感すら覚える」だの、
「ipadで手に入る情報は、たいしたものじゃない」だの、
「仕事で使うのは、紙と鉛筆があれば十分」だの、

まー、とにかく言いたい放題に言っていて、気持ちが良かった(笑)。もちろん、これに対して「それはあんたの仕事が特殊なんだ、オレには必要なんだ、重要なんだ」と反論することはできるのだけど、だがしかしこの人の発言の骨子である「あなたは、消費者になってはいけない、生産者になりなさい」ということに対し堂々と反論出来る人は少ないだろう。

なるほど、確かにipadは「消費するための道具」だ。それは僕も感じる。ipadだって生産的な活動に使える、本当にこれは消費するだけのものなのか?という意見は確かにあるだろうが、そりゃあどんなものだって消費するためと生産するための両方の役割は幾許かはあるわけで、少なくとも今までのパソコン等に比べてipadが「あきらかに消費するための道具として作られている」ことは誰しも感じているはずだ。少なくともipadと同じぐらいの価格のネットブックやスマートブックと比べて、どちらが生産的活動に使えるか?といえば、どう考えてもipadではないだろう。

この部分に異存はない。これを単に「年寄りの説教」ととらえるのはどうかと思う。彼がいう、もっと本質的な部分への反論なしに、彼の言を否定することは難しい。

だが、実は全く別のところで、僕はちょっとこの人の発言に違和感を覚えたのだ。彼は、安宅型軍船というのを(←なにこれ?)例にして、「ipadでも調べられるのでは?」というインタビューアにこう反論する。

「あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男達への関心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。」

ここで「うんうん、それはそうかもしれない」と思った人も多いことだろう。デジタルに対するアナログな感性。それは僕もあると思う。

そして。そうした感性を認めるならば、同じ理由でipadも認めざるを得なくなることに彼は気づいていないのだろうか?という疑問が僕の中に沸き起こってきたのだ。

雰囲気、関心、共感、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで何がわかるものか。それは本当にそうなのだ。そして――宮崎駿ちゃんは、ipadに対し、それを行っていないのだ、ということに本人が気づいていないのだ。

例えば、彼は「感性、感覚」というのを非常に重視している。そして「紙と鉛筆があれば仕事はできる」という。だが、実をいえば、この種の感性/感覚は、「デジタルな世界」にも存在しうる。

20代の終り頃だったろうか。とにかく僕は忙しかった。今考えてみても信じられないが、一昼夜で原稿用紙500枚のテキストを書き上げたこともある。同時に十数本の記事を並行して書いたこともある。その頃、完全に仕事に没頭すると、「腕がなくなる」ことが頻繁に起こった。つまりね、キーボードをタイプしているその部分が消えるのだ。頭で考えたことがそのまま画面に文章として出てくる、脳とコンピュータが直結されて腕とキーボードが存在しない感覚。そういう感覚に頻々として襲われた。

そればかりじゃない。逆に「コンピュータが僕の脳に語りかけてくる」ことすらあった。文章に詰まって呻吟すると、コンピュータの画面に「こういうのはどう?」とばかりに続きの文章が出てくる。それを読み、「ふむふむ、そうだね」と相槌をうちながら記事を書き進めることもあった。自分の脳味噌がコンピュータの中に溢れでていったような、今からするとなんとも不思議な体験だった。そして、おそらくはもう二度と僕には味わえない感覚だった。

彼には、この感覚は決して理解できない。彼の言をそのままに肯定するなら、それは彼がどんなに調べてもわからないものだ。それは、毎日原稿用紙百枚以上のテキストをキーボードからひたすら入力する経験を持たない彼には、決して到達できないところにあるのだ。

それは、例えば毎日コーディングしデバッグし続けるプログラマにもあるだろう。毎日、朝から晩までハンドルを握るトラックの兄ちゃんやタクシーの運ちゃんにだってあるだろう。朝から晩まで家事に追われる主婦にだってあるだろう。一日中ネットサーフしている人間にだってあるものかも知れない。どのような世界であれ、それがアナログであれデジタルであれ、そこに関わる「人間という究極のアナログ媒体」が感じるものであるならば、常に「それを突き抜けた先にある特別な感覚」は存在し得る。そして、彼が「ipadでは決してわからない世界がある」といったのは、そうした世界のことではなかったか。

彼を残念に思うのは、それだけ「アナログな感性」に執着し、情報よりも感性を重んじる彼が、デジタルに関しては常に「表層的な情報をなぜ回しただけ」で、本気でその感覚や感性に迫ろうとすることなく安易に判断をくだしてしまうことだ。彼流にいうなら、彼は、ただ単にipadという道具の「消費者」に過ぎない。彼はipadという道具の生産者ではなく、生産者であろうと試みることすらなく、単に誰もが手に入るような表面的な情報でipadを評価する。ipadを使い続けた先にあるものが何か、ipadのある生活というのがどういうものであるのか、それを感覚的に理解しようとせず、ただ頭だけで理解したと思い込み判断している。そうすることの悪を問いかける彼が、だ。

彼の言っていることはある意味正しいし、傾聴に値するものだ。そして、であるからこそ、彼の発言は間違っている。彼は、ipadについて安易に発言すべきではなかった。ipadのある世界がどのようなものか、それを肌で感じようと試みることなく安易に否定するのは、彼の主義主張と相反する行為だった。彼は、間違った。

彼のipad発言が正しかろうが間違いであろうが、それはもちろん、世の中にたいした影響はないだろう。ただ単に「彼はipadを正しく理解し感じ取ろうと試みることなくipadを安易に評価している」というだけであるならば、僕はそれほど彼の発言に注目することはなかっただろう。僕がどうにもイヤ~ンな感じを受けてしまったのは、彼の中に、「どのような世界であれ、その世界を突き進めようとする人々がいる」ということから目を背ける思いがあったのではないか、と感じてしまったからだ。

彼の中に、「この世の、どんなにつまらぬと思える世界であっても、その世界を愛し、突き進もうとする人たちがいる」という意識はあっただろうか。そこに、「自分にとってとるにたらぬものと思える世界に全力を注ぐ人々」に対する畏敬はあるだろうか。

彼は、自らものを見だしていくことのできる数少ない「生産者」だった。だが、彼は、彼が倦むものの中にも、同じようにその世界を創造しようとする生産者たちがいることに思い至れなかった。好悪に終始し、悪の向こう側に彼と同じ人々が息づくことを感じ取れなかった。この世のどのような唾棄すべきものと思われるような世界ですら尊敬に値する生産者たちが存在する事実に目を向けようとしなかった。

そして、彼が見下す「消費者」によって、生産者は支えられているのだ、ということにも想いを馳せることがなかった。

「消費者になるな、生産者たれ」という彼の言は決して間違いではないが、しかし彼が生産者たり続けることができるのは、無慮数の消費者が存在するからだった。無数の、彼が見下す消費者たちによって、崇高なる彼の生産活動は支えられていた。自分の活動を支えてくれる名もなき消費者を彼は見下すことができるのだろうか。

つまるところ、彼は単なる「視野の狭い老人」に過ぎなかったのだろうか。彼のファンでもある僕は、そうでないことを願いたい。だからこそ、彼にもっと考えて欲しいのだ。「自分は、本当にipadという道具がもたらす世界を真剣に感じ取ろうとしただろうか」「自分にとって唾棄すべきものであっても、それは自分と同じような生産者たちの汗によって生み出されているのだ、ということに対する畏敬の念を失ってはいなかったか」「自分は、ただ好悪だけでものごとを取るに足らないと切り捨ててはいなかったか」といったことを。

世界の宮崎駿ちゃん。僕はあなたがそんなただのロートルであるとは思いたくない。ぜひ、どこかで自分の発言に対する、真摯な釈明をしてほしい。でないと、気分よくアリエッティを家族で見に行くことができないだろう?

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