新しい「何か」をみんなで使って世界を変える……必要なんてあるのか?

今朝の新聞だったと思うが、東浩紀氏が新しいネット技術などに対する既存メディアの動きのにぶさについて書いていた。朝生に出たとき、Twitterのつぶやきをリアルタイムにテレビ画面に表示したらどうだ?と提案したのを苦笑で終わりにされてしまったことへの憤懣を筆に込めたのだろう。

「Twitterは、ただの道具に過ぎない。新しい道具が目の前にあるんだから、それについて議論する暇があったら、それを使って世界を変えることを考えたほうがいい」

だいたい趣旨としてはそんなことだったと思う。確かに、TwitterだのFacebookだの、既存メディアに登場する機会はずいぶんと増えたが、それを具体的に「こんな具合に使ってやろう」という動きは非常に鈍い。Twitterはなんたらかんたらをどう変えるか、みたいな抽象論ばかりがメディアに登場し、その利用に懐疑的な立場から外へと出ようとしない。とりあえず、今、既にあるんだから使えばいいだろう。使って、「こう使ったら世の中変わるんじゃないか?」と試してみないことには何も始まらないだろう。

しごくもっともで、さすがにネットの世界で広く支持されている人の発言は説得力がある。そのことを踏まえた上で、いってみる。

なぜ、使って世界を変えなきゃいけないんだ?


――例えば、「Twitter」を「核兵器」に置き換えたらどうなるだろうか。その良し悪しを考えてばかりいないで、とにかく使って世の中を変えよう。勘弁してくれ、そんなことされちゃたまらんよ。それじゃ、「サリン」だったらどうだ? あるいは「高病原性鳥インフルエンザ」だったら?

おいおい無茶なことを言うな。Twitterとそんなもんをいっしょくたにして論ずるんじゃない。それらは人類の敵・凶器であってTwitterなんかとは違うだろ。――そう。核兵器やサリンで「ともかく使ってみよう」といわれないのは、それが「悪」であり、どれだけの被害を生むものか誰もが知っているからだ。

そう。「とにかく使ってみよう」といえるのは、「それが悪ではないもの」という但し書きがつくのだ。明らかに人間に害をなすものでは、「とにかく使おう」はあり得ないのだ。――であるならば、「とにかく使おう」というその前に、少なくともそれが「人に害をなすものでない」ということを確認しなければならない。

もちろん、直接的に「Twitterを使ったら人が死んだ」なんてことはない。そしてTwitterによってさまざまな新しい変化が生まれていることも確かだ。だが、その反対の意見もたしかにある。Twitterではないが、SNSなどではその依存度が社会活動に影響を与える可能性について指摘されているし、Twitterによって無用の混乱や風評被害が生ずる事例もぽつぽつ出てきた。

だが、メディアは核兵器のような武器ではない。要は使い方次第だ。うまく使えばいいんだ。――否。「メディアは、武器」である。そして、「うまく使えばいい」という点では、核兵器と何ら変わらない。

……いや、もちろん僕だって「Twitterを撲滅しろ」とかいうつもりはないよ。そうじゃないんだ。なんていうのかな……つまりね、「多くの人が諸手を上げて賛同するものほど、メディアは懐疑的にならなければいけない」ということなんだ。ネットのサービスは、短期間に多くの人を取り込み夢中にさせる。使った人は誰もがその良い面ばかりを享受し、悪い面を受け流す。

だからこそ、メディアはそうした「新しい何か」に対し、常に懐疑的でなければならない。より多くの人が絶賛するものについては、特に。多くの人が悪いものと捉えるものの良さを、そしてよいものと捉えるものの悪さを、メディアこそ追求しなければならない。

Twitterを悪く言う人を僕はほとんど知らない。「あんなものは廃止すべきだ」なんていう人を日本で見つけるのは至難の業だろう。だからこそ、メディアはそれを安易に受け入れるべきではない。あくまで「Twitterは何なのか」を追求しなければならない。

道具は、使う前に、「それがよい道具足りえるのか」を厳密に検証されなければならない。振り回すと頭がすっとんでいくトンカチや、スイッチを入れると指を切り落とすチェーンソーは使ってはならない。それが道具としてどこまできちんと使えるものなのか、それを使うために何が必要なのか、誰にとって役立つものなのか、そうしたことをきっちりと検証してこそ、初めて道具は人の役に立つ。

東さんの意見も良くわかるし、おそらくそれがネットを使いこなす人の多くが同調する意見なのだろう。だが、だからこそ僕は、新しい道具に対して常に懐疑的でいたい。新しいものに真っ先に飛びつく人は、その道具で真っ先に新しいものを作った。だが同時に、それで真っ先に人も殺した。世の中を新しく作ったのも彼らだったが、世の中を壊したのも彼らだった。

そしていつの時代も、最終的に人々の暮らしを守り続けたのは、新しいものに背を向け、古くから使われてきたものだけをかたくなに守り続けた人たちだった。そうした人々がしっかりと世の中を維持していたからこそ、新しいものに真っ先に飛びつく人々は、安心して飛びつけたのだ。

そのことを多くの人は忘れてしまう。忘れて、「自分の力で」飛びついたのだと錯覚する。飛びつくためには、しっかりとした大地が必要なことを忘れて。

鳥が空を飛ぶのは、鳥だけの力じゃない。羽ばたく「大地」の力が不可欠だ。そして「鳥」と「大地」とどちらが偉いか、どちらを選ぶべきか、なんて問いは無意味なのだ。なぜなら、どちらが欠けても、鳥は空を飛べないのだから。

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