援助という名の祭(1)

未曽有の大震災から10日以上が経過した。その間、多くの人々の、この天災に対する真摯な姿勢に心打たれてきた。誰もが心から人々の無事を願い、なんとか力になれないかと考える。そういう姿を目の当たりにしてきた。だから、このことは書くべきかどうかひどく迷った(今なお迷っている)。だが、書いておくことにする。

今、日本中の誰もが東日本の復興のために何かをしたい、すべきだと感じている。そのことは素晴らしいことだと思う。だが、その方向が少しずつどこか明後日の方へとずれはじめていることはないだろうか。今一度、自分たちのスタンスを確認する作業が、ぼちぼち必要となってきてはいないだろうか。

抽象的な曖昧な表現はやめよう。例えば、寄付・募金。多くの人々が寄付や募金に走っている。このことは決して間違いではないし、立派なことだろうと思う。だが……我が家では、どうすべきか悩みに悩み、結論として「世界で最も困窮する人々」のため、リビアの内乱で苦しむ人々に募金をすることにした。多くの人々が、東日本の復興に募金をする。だが、そのために「日本以外の、苦しむ人々」が日本において忘れ去られることがあってはならないと思った。「世界で苦しんでいる様々な人々に、このような状況だけれど日本でも思いを馳せている人はいるのですよ」ということを伝えることができれば、と思った。

日本人としては、おそらく日本の復興にお金を回すべきなんだろう。だが、どうしても我が家は、「日本人だから」ということを優先する気になれなかった。我が家にとっても大切なお金だ、出来うる限り有効に使いたい。――そしてそのこと以上に感じたのは、「今、この瞬間に、東日本のために募金することへの違和感のようなもの」だった。

無論、東日本の復興にお金は重要だ。だが、それは「今」ではない。今、僕らが募金したお金でモノを買って、被災地に届けているわけではない。今、必要なのは、「金」ではなくて「モノ」なのだ。食料、医薬品、移動のためのガソリン、そうした「生きるための必需品」だ。

ある程度、被災地が落ち着き、「さあ、これから全力で復興していくぞ!」となったとき、莫大なお金が必要となるだろう。そしてそれは、これから先、長い年月必要であり続けるだろう。半年後、1年後、5年後、10年後……。果たして、今、募金をする人々は、そのときになっても募金し続けているだろうか。今、このどさくさの中で募金をし、すっきりと気分良く善行をなしておしまい、となりはしまいか。そのことが僕はとても不安だ。

僕が、今、「さあ、寄付だ、募金だ!」と駆け回っている人に感じてしまうのは、「この人は、祭を楽しんでいる?」という疑念なのだった。――地震から数日。周り中から保存食や物資が消え、あちこちのスーパーが開店休業状態となった。僕は慌てて自転車であたりのお店を走りまわり、食料の確保に奔走した。今、落ち着いて振り返ってみれば、僕はその騒乱をどこかで楽しんでいたような気がするのだ。確かに停電や買い占めなどで困っていた、だが心の何処かで、この「リアルサバイバルごっこ」を楽しむ自分がいたのもまた確かだった。

募金も、大切だ。だが、個人が災害支援グッズの類いを作ってネットで販売したりしているのを見ると、「この人は、この災害をどこかでイベント化し楽しんではいまいか」という思いがどうしても脳裏をよぎるのだった。みんなで揃いのジャンパーなぞを発注し、「これを着て、みんなでボランティアに駆けつけます!」とにこやかに答える人。非常時のガスコンロやコッヘルをアウトドアショップで山のように買い込み、キャンプごっこを楽しむ人。僕らは、確かに楽しんでいる。この未曾有の災害を、心の何処かで。

ダメだ。そのことに気づいてしまうと、もう僕は同じように募金することができなくなってしまうのだった。募金をすべきだ。同じ日本人として助けるべきだ。わかった、しよう、ただし今ではない。本当にお金が必要となる半年後、1年後に。今は、即刻支援が必要なリビアの子供たちのためにお金を使おう。僕はそう判断したのだった。

被災地の只中にある方々には、本当に心からお見舞い申し上げます。そのぐらいしか、今の僕にできることなどないから。ただ、遠く離れた地から祈り、自分の無力さを恥じることぐらいしか僕にはできないから。少なくとも、当事者でもない自分が、安全な場所から、まるで被災者のことをわかっているかのように振舞うことの恥ずかしさに僕は耐えられない。

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