援助という名の祭(2)

自身で被災下町をAIに描いてもらった。

今回の大震災は、人々の本性をむき出しにしてしまったような気がする。中でも僕が寂しく情けなく思うのは、「正義に酔う人々」の姿だった。

数日前の朝刊では、テレビで子どもが回転寿司で「まぐろが食べられなくてがっかり」と報道していたのをあげつらい、「この非常時に、マグロぐらい何だ!」と非難する投書が載っていた。

この人は、気づいていない。被災者でもない、安全な地に暮らす人間が、まるで被災者を代弁するかのように高らかに正義を断ずることの恥ずかしさを。今、このときに「何が正しいか」を見抜くことは難しい。誰もが「こうすべき、ああすべき」と思い迷い、考えあぐねる。そのことは、実はとても大切な事なのだ。軽々に「これが正義だ、これが悪だ」と断ずることがあってはならないのだ。

例えば、被災地ではガソリン泥棒やカップラーメン泥棒が出始めているという。僕は、そうした人々を「悪だ」と断ずる気にはなれない。もし、自分が同じような立場で、子どもが飢えにより自分の腕の中でまさに息絶えんとしたなら、僕は強盗でも何でもやるだろう。心静かに、秩序を守って子どもを死なせることなど僕にはできそうにない。他人の子が食べる握り飯を奪いとってでも子供に食わせるかも知れない。いざとなったとき、どういう行動を取るか、僕にはわからない。そして、もし目の前にそうした人間がいたとしても、僕はそれを非難する気にはなれない。

僕が情けなく思うのは、そうしたことを安全な場所から非難し断ずる人々だ。非日常な渦中にある人を、日常が保証された場所から日常の常識で「これが悪だ、これが善だ」と裁く。そのことの無意味さに気づかぬ人々だ。

みんなイライラしている。ちょっとしたことで爆発する。だからこそ息抜きしたい。たまには外で食事し、ほっと一息つきたい。たまにはビール呑んでテレビで野球でも眺めながらおだをあげたい。だが、それは「非国民」なのだ。清く正しき人々によって見つかれば糾弾され吊るし上げられる。そうして日本を冷やすことが正しいことなのだと信じる人々によって。

うちの娘は、9月11日生まれた。そう、あのNYテロの日である。だから9.11は、我が家にとってお祝いの日だ。だが、生まれてから今まで、心から「やー、今日は楽しいハッピーな日だなあ」と思うことは難しかった。TVではしかめっ面したキャスターが黙祷する人々を長々と映しだす。その前で「ハッピーバースデートゥーユー!」とにこやかに歌えるか?

3月11日にも、生まれてくる子どもはいるだろう、結婚するカップルはいるだろう、卒業する子供たちはいるだろう。だが誰もがみんな喪章をつけ、自分の幸せを閉ざさなければいけない。それは果たして正しいあり方なのか?

震災が起こる前も、世界中で苦しむ人々はいた。そして、そうであっても人々は楽しみ幸せを噛み締めることができた。そうした「日本人以外の苦しむ人々」は、存在を忘れることが許された。だが今、震災に苦しむ人々を同じように頭から拭い去って楽しむことは許されない。今、この瞬間にさえ、幸せを噛みしめている人は必ず日本の何処かにいるはずなのに。

いい加減、このまるで戦時中か何かのような言論統制をやめようじゃないか。幸せな人には幸せな思い出を。辛く苦しむ人にはちっぽけでもいい何かの力を。それは決して相反するものじゃない、同時にできないことではないはずだ。

楽しもう。幸せをかみしめよう。それが許されない世の中は、どこか狂っている。無論、その間も、頭の一部を節電に振り分けたり、支援の道を探るのに振り分けるのは一向にかまわない。だが、少なくともそうやってそれぞれのペースで日常を取り戻そうとする人間を非難し糾弾することだけはやめようじゃないか。

どんな不幸せの中にもなお小さな幸せはある。本当の不幸は、その小さな幸せを手ずから離さなければならないことだ。自分の意志でなく、人々の無言の圧力によって。幸せな人々をより不幸にすることによって誰かが救われることなどありえない。そのことを僕らは忘れてはならない。

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