そんなにジョブスは偉かったのか?

どうにもこの数日、あっちでもこっちでもジョブスに関する記事ばかりで、至極居心地の悪い思いをしてきた。それについて書く。

ジョブスがなくなったのを知ったのは、Google+のストリームだった。朝起きて、ニュースだのをチェックした後、なんとな~くGoogle+のストリームを開いたままつらつらと昨日書いた原稿の整理なんぞをしていた。すると突然、ストリームから猛烈な勢いでジョブスの写真が流れ始めた。次から次へと。一体、何が起こったんだ?と思ってリンクされた記事を見て絶句した。まさか、ジョブスが死ぬとは。彼のことだから、闘病に専念して1年もすればまた帰ってくると思っていた。そういう人間だと信じて疑わないところがあった。こんな想定外の結末が用意されていようとは。

当日、やはり僕は僕なりにショックだったのだろうと思う。Google+の投稿もあまりなく、あっても精彩を欠いていたようだ。どこかしら、ふつりと糸が切れたようなところがあった。――が、それから数日の、メディアの騒動からすれば、その当日はまだしも静かなものだった気がする。

日を追うに連れ、メジャーなメディアまでがジョブスの追悼記事をどしどし出し始めた。そうやってジョブスのイメージが異様なまでに高められていく姿が、なんとも気持ちが悪かった。ジョブスは、神になろうとしている。現代のカリスマ、真の改革者、天才、ヒーロー、不世出の経営者、世界を変えた男。中には、レオナルドダビンチと並び称せられる存在とコメントしたところもあった。

違う。僕の中のジョブスはそんなご大層な人物じゃなかった。僕の中のジョブスの一番的確なイメージを一言で表すなら……「詐欺師」。これだろう。天才的な詐欺師。世界中の人間を騙して金を巻き上げることに成功した男。そういう印象だった。いっとくが、これは褒め言葉だ。口先だけでこれだけの人間を信じこませることなど、並大抵の人間にはできない。

ジョブスが作った製品は、ジョブスが作ったわけではない。中身を設計した人間、プログラムを組んだ人間、デザインをした人間、宣伝をした人間、部品の調達をし、組み立てた人間、みんな別人だ。ジョブスはそれらをまとめあげ、完成したパッケージとして製品化し、世界中に売り込んだ。「それがすごいんだ、それはカリスマ性のある人間でなければできないことだ」というのはわかる。わかるんだが、何か、どこか違う。

例えば、とてもわかりやすいものとして、apple ][を考えよう。apple ][は、アップルコンピュータの最初の製品で、世界的にヒットした初めてのコンピュータだ。これは、もう一人のスティーブであるウォズニアックという天才的ハードウェアハッカーが設計し、創り上げた。だが、それをキットではなく(当時、パソコンはみんなキットで、自分で組み立てるものだった)美しいフォルムの筐体にまとめあげ、虹色の林檎マークを付けて、世界で初めて「誰もが自分の机に置いてみたいと思わせるコンピュータ」に仕立て上げたのはジョブスだ。ジョブスがいなかったら、apple ][はあそこまでヒットはしなかっただろう。ジョブスが世界を変えたのだ。

……そうか? では、ウォズニアックがいなくて、別の人間が設計したコンピュータでも、ジョブスがそれをパッケージングし売ればapple ][になったのか? いいや。断言してもいい、apple ][は、ウォズが作ったからこそ成功したのだ。あれは、彼のマシンだ。彼の信じられないほどにシンプルなハードウェア設計、極限まで切り詰めたソフトウェア、芸術的なまでに洗練された技術があったからこそ、apple ][というマシンに我々は魅了されたのだ。apple ][の9割はウォズの功績だ。

Macはどうだ? ジョブス以外の人間が別の人間であっても成功したか? いいや。ビル・アトキンソンによる脅威のビットマップスクリーンシステム、アンディ・ハーツフェルドによるインターフェイスなどがなければ、Macは決して成功しなかった。Macの功績は半分以上がジョブス以外の人に帰するものだ。

すべては、そうだ。それは、「チームの仕事」だ。すばらしい仕事をする人々が集い、すばらしい製品が誕生した。ジョブスは、その基本的な設計思想を提示し、全体を統括し、完成した形にまとめ上げ、それをカリスマ的なプレゼンで世界にアピールした。それが、ジョブスの担当の仕事だった。それぞれがベストを尽くしたから素晴らしい製品が生まれた。ジョブスが天才だったから生まれたんだ、そうでなければありえなかった? その通り。そして、ジョブス以外の人間が凡才だったとしてもありえなかったろう。それらの製品は、ジョブスのものではない。チームの成果であり、チームのものだ。ジョブス一人が功績を独り占めにするものではない。

ジョブスにはカリスマ性がある。人を引きつけ、魅了する力がある。だから多くの人はジョブスを天才といい、功績を称える。それに異存はないし、僕だって彼は天才だと思う。だが、そのすごさを強調するあまり、彼以外の人間の功績がすべて彼の影に隠れ消えてしまうのは正しいことだろうか。

どうも僕の中で、何かを指導する立場の人間、上に立つ人間が高く評価されると、反射的に「違う!」と思ってしまうところがある。トップに立ち、大勢が集まったきらびやかな席で完成した製品を発表する人間と、中国の工場で朝から晩まで非人間的なまでの労働を強いられる人間と、果たしてどちらが本当に立派な仕事をなしたといえるのか、と本気で考えてしまうところがある。そこで無条件に「下っ端の人間が一日働いたって何も世の中に影響なんて与えられない。それに変わりはいくらでもいる。トップの人間がすぐれていなけりゃモノは売れない。トップが偉いに決まってるだろ」と割りきって考えられないところがある。

彼は、世界を変えたという。彼の作った製品は、生活を変え、世界を変えたという。そうなのか? 僕はipodもiphoneも使っていない(持ってはいるけど)。Macはあるが普段はWindowsマシンだ。僕の世界は、アップル製品によって変わったわけではない。Macが世界を変えたといっても、世界の9割はWindowsマシンだ。iPhoneが世界を変えたといっても、それより広く使われているのはAndroidだ。MacがあったからこそWindowsも生まれた? iPhoneができたからこそAndroidも作られた? では、MacがなければWindowsはなかったか。iPhoneがなければAndroidはなかったか。否。今のこの世界は、おそらくはジョブスが、そしてアップルという会社がなくとも到来したはずだ。アップルの代りは無数にあった。apple ][より、Macより、iPhoneよりすぐれたものはあった。それらは成功しなかっただけだ。

たかだか1つのモノや一人の人間が世界を変えることなどない。僕はそう思っている。世界を変えるのは、常に名もなき民だ。一人の権威者権力者ができるのは、ただ世界の時計の針を進めたり遅らせたりすることに過ぎない。たとえその人物がいなかったとしても、それより多少時間はかかっても世界は必ず同じ場所までたどり着く。ジョブスがいなくても、ジョブスが「変えた」といわれるこの世界に必ずいつかはたどり着いた。彼は、少しだけ先にそれを予感し、提示することができた。彼が「変えた」のではない、変わる時期を多少早めただけだ。

確かに、彼にはカリスマ性があった。みんなが魅了された。だが、それは彼が「多くの人々に高く評価されやすいタイプの人間」だった、ということでもある。古代ローマの時代、共和制から帝政に移行する土台を作り、以後のローマ帝国の基礎を作ったのはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)だった。彼は溢れる才能があり、誰もが熱狂的に彼を支持した。だが、本当の意味でローマの繁栄の基礎を築いたのは、彼の後を継いだアウグストゥス(オクタビアヌス)だった。華々しい戦果もなく、凛々しい横顔もたくましい肉体も持っていなかったが、彼は生涯をかけ目に見えない細かな仕事を積み重ね、ローマ繁栄の基礎を築いた。どちらが優れているか、どちらが立派かなど無意味だ。ローマの繁栄にはこの両者が必要であり、どちらが欠けても不可能だった。

僕は、彼のことを貶めようとしているんじゃない。ただ、「神格化すべきでない」といっているだけだ。ジョブスは、カエサルなのだ。彼に多くの人は魅了される。だがその一方で、本当の意味で製品を支える仕事を地道に着実にこなしていった無数のアウグストゥスがいる。その功績を、一人カエサルのみに帰するべきではない。ジョブスを高く評価するあまり、彼の影に隠れた人々の存在を軽んずることがあってはならない。

……それに。

今、ジョブスを賛美する人間というのは、世界の中のごくわずかでしかない。世界の大多数は、ジョブスやアップルやiPhoneとは無縁の世界にいる。ジョブスの功績を称える人々は、皆、世界の中で「もっとも豊かな1割」に含まれる人間ばかりだ。電気もなく水もない、明日食べるものをいかにして確保するか、そんな地で、iPhoneは何も世界を変えることなどできない。ジョブスと彼の生み出した製品は、世界中の貧しい人々の犠牲の上に作られている。僕らの豊かな生活は、大勢の奴隷によって支えられている。

彼は世界を変えたという。その「世界」には、僕らの生活を支える50億の見えない奴隷たちは含まれているだろうか。iPhoneは、彼らの暮らしなど何一つ変えられない。そんなものが、「今世紀最大の発明品」? 何をバカな。世界中で苦しむ人々を救いもせず、更なる労働を強いて生み出された、富める1割のためだけの製品が世紀の発明? 勘弁してくれ。

また、iPhoneを手にする豊かな人間たちも、それによって幸せになったのだろうか。生活は変わった、より便利になり、快適になった。だが、幸せにはなったろうか? MacとiPhoneとiPadに囲まれ一日中世界とつながっていないと気が済まない現代人よりも、16世紀の暮らしをかたくなに守り続ける、電気も車もないアーミッシュのほうが幸せに見えるのはなぜだ? 技術は、果たして本当に人を幸せにできているだろうか。新しい技術が「世紀の大発明」といってよいのは、この一点、「その技術によって、世界中の末端に暮らす人々までをもが確実に幸せになれる」という条件をみたすべきではないのか?

MacもiPhoneもiPadも、素晴らしい。だがそれは「限定付き」の素晴らしさだ。それらの素晴らしさを享受するには条件がある。豊かであること。インターネットに何の政治的妨害もなく接続できること。そうしたことのできる、世界のほんの一握りの人間だけがそれを享受できる。例えば、百福氏が発明したインスタントラーメンは、世界中の飢えに苦しむ人々を救った。「世紀の発明」にiPhoneとインスタントラーメンとどちらを選ぶかと問われれば、僕はためらいなくインスタントラーメンを選ぶ。iPhoneがなくとも誰も死なないが、インスタントラーメンがなければ無数の人命が失われる。世の中には世界中の人々を救う技術や製品がある。その多くは、カリスマ的な指導者ももたず、人々に知られることもない。だが断言してもいい、それらはiPhoneよりはるかにこの世の中に必要なものだ。ジョブスを祭り上げるあまり、彼が宣伝した製品までをも何でもかんでも「世紀の大発明品」に仕立て上げてはならない。


彼を祭りあげるのは、よそう。彼は優れた人間だったが、神ではない。預言者ではあったが、イエスではなかった。それを後の十二使徒たちがよってたかって彼を神に祭りあげることが正しいとは思えない。もうこのへんにしよう。彼は存分に生きた。彼への弔辞は、それで十分だ。

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