朝日新聞で「プロメテウスの罠」という連載をずっとやっている。福島の原発事故についてさまざまな立場の人間を取材したものだが、少し前から、事故のしばらく前に家を購入して浪江に住んでいた男性のルポが掲載されていた。
その男性のルポが、なんというのか「違う」のだ。なんともいえない違和感を覚えてしまうのだ。「こういうこと、いっちゃいけないんだろうな」と思って我慢していたのだけど、書いてしまおう。
――ルポに書かれていたことを整理するとこうなる。
新規購入した家の代金を払ってもらわないと困る。前の家の補償額では足りない。それに月10万円の慰謝料が止められたら生活できない。事故で住めなくされたからやむを得ず他所の土地に移り住んでいるのに、家を買ったから慰謝料は払えないとはどういうことだ? 調べてみると、女性で結婚したら慰謝料を停止された人もいるという。東電は何を考えているんだ?
……どうだろう。ここまで読んで、「違和感」を覚えなかったろうか。 「……え、なんでそうなるの?」と思った? それとも、「そうだそうだ、そのとおりだ!」と思っただろうか。
正直なところ、僕には東電の対応が「しごく真っ当なもの」に見えてしまうのだ。住めなくなったので家の査定額を補償する。といっても買いとるわけではなく、お金を払うだけ(家は依然として持ち主のもの)。そのお金で、別の土地で家を探すなりマンション借りるなりしてください。――別に、ひどいことをしているとは思えない。
「住めなくなったから補償しろ。ただし、持ち主は自分のままだ。それとは別に新しい家を買ったからその代金も払え」――どう考えても意味不明だ。9日の記事を読むと、「ダムなどでの買取に比べて補償額が少なすぎるのが問題だ。ダムによる用地買収なら2千万近い金額になるはずなのに福島の補償は6百万にしかならない。これじゃ新しい家が買えない!」ということだった。
確かに金額の大小はあるだろう。が、ダムの用地買収のように「買取」ではなく、しばらく住めなくなる補償なのだから、買取金額より下がるのはやむを得ないところもある。(逆に同じ金額にしたら、今度はダムなどで土地や家を失う人のほうが「なぜ、家を取られもしない彼らと同じ額なんだ?」と思うだろう)
それに「この金額じゃ新しい家が買えない!」というが、普通は家はローンを組めば買えると思うんだよね。前の家の補償で、たとえローンが残っていても返済は済むだろう。なら、新たにローンを組んで建てればいいと思うんだが。「誰のせいで住めなくなったと思ってるんだ!」といいたい気持ちはわかるんだけど、その補償だの慰謝料だのといったものと、「新たに買う自分の家の支払い」は別だと思うんだがな。だって、自分の家でしょ? 新築して、これからずっと住める、我が家でしょ? 東電の補償は補償として、新たに住まいを買うなら自分でローンを組んで建てればいいと思うんだけどな。自分の家なんだから。
どうしても「新しい家を買って代金を支払え!」というなら、前の家は東電に渡すのが筋では? 前の家も俺のもの、新しい家も俺のもの、どっちの金も払え、というのはなんかおかしくない? その上、住めなくなった補償ももらうんでしょ? 将来、元の家に戻れたとしたら、新たに買った家は東電に返すの? 「どっちも俺のものだ!」っていわない?
それに、毎月支払われる慰謝料。ご不便をおかけします、更には家やふるさとに戻れない精神的な苦痛をお金で補償いたします――そういうことだと僕は思ってた。なら、「別の土地に家を買ってそこで暮らします」となれば、それで毎月の慰謝料の支払いはおしまい――これは別におかしくはないと思うんだが(だって、何のための「慰謝」なの?)。「慰謝料が止められたら生活できない」というのだけど。
そもそも、なぜ彼は働かないんだ?
どうも今回の一連の記事は、「福島で避難生活を送っているという人って、やっぱりこういう連中だったのね」というある種の不快感を逆に与えてしまってないだろうか。これを読んで、同情する人いるんだろうか。むしろ「我々の支払ってる電気料金でなんだってここまで厚遇しないといけないのか?」と思ってしまわない?
勘違いしてほしくないんだが、僕は別に「福島の事故で避難生活をしている人なんて支援する必要ない」といってるわけじゃない。事故はさまざまなところに大きな打撃を与えた。その影響をもろに受けてしまった周辺の人々のサポートは必要だ。
だが、それは「その他のさまざまな災害で被害にあった人たちより格段に手厚く遇しなければいけない」ものとは思わない。
朝日新聞は、ずっとこの「プロメテウスの罠」を連載し続けている。「福島の事故を風化させるな」と叫ぶ。それはその通りだ。異論はない。だが、福島の事故「だけ」を特別扱いすることは正しいのか。
確かに、彼らは被害を受けた。突然の事故で、故郷から追われ、自宅にも戻れない暮らしが2年も続いている。だが、考えてほしい。彼らは誰も死んでいないのだ。こういってはなんだが「ただ住めなくなっただけ」じゃないのか?
よく思い出してほしい。本当に彼らが「もっとも手厚く支援しなければならない人々」だったろうか。家を失い土地を失い、親を失い、兄弟を失い、友人を失い、仕事を失い、すべてを失った多くの人々が、かの震災では大勢いたはずではなかったか。そうした「親兄弟を殺され、家も財産もすべて奪われた人」より、「原発事故で自宅に住めなくなった人」のほうが不幸なのだろうか。厚遇されるべきなのか。
原発の問題は日本の将来に関わる大きな問題だ。それはもちろんその通りだ。だが、原発事故を大きく取り上げ続けるあまりに、「かの震災=原発事故」であるかのように扱うのはどうなのか。震災のあらゆる悲劇は早々に風化され、ただ原発事故のみがクローズアップされる。その風潮に僕は違和感を覚えるのだ。
津波ですべてを失った人々は、毎月10万円の慰謝料ももらえない。流された家の補償もしてもらえないし、新しい家を誰かが買ってくれるわけでもない。なぜ、彼らがまっさきに救われないのだろう。原発被害の人々が声高に叫ぶのを耳にする度に、むしろ僕は「彼ら以外の人々」を思わずにはいられなくなるのだ。
もっと、目を向けよう。「原発で避難している人々」以外の人々へ。本当に救済すべき人から救済しよう。関連する事故の重大さによって救うべき人の優先順位を変えるべきではない。
もう1つ。これはどうしてもいっておきたい。
原発事故ばかりをクローズアップし糾弾するその姿勢からは、事故発生から現在まで、日本でもっとも過酷な業務につき日本を支え続けてきている人々を正しく評価できなくなるのではないか。
その人々とは、事故から現在まで、福島原発で働いている人々だ。
事故当初、現場に残ることを選択し事故収束に尽力した彼らは、「Fukushima 50」として世界から称賛された。それは、既に終わったことじゃない。今、この瞬間も、事故現場では命がけで働いている多くの人々がいるのだ。
僕が情けなくてしかたがないのは、そうした彼らに対する畏敬の念が今の日本において微塵も感じられないことだ。
原発は、糾弾の対象でしかない。東電は日本の敵だ。――そうした固定された見方からは、「今、事故現場で働いている東電やその下請けの職員たち」をも非難の対象としてしか見られないのではないか。彼らが「やってらんねーよ」と一斉に職場放棄すれば、東日本は人が住めない土地になるかも知れないのだ。いわば、日本の将来は彼らが背負っているといってもいい。
避難者にスポットを当て、東電や原発関係者を糾弾する。それが果たして本当に正しい「原発事故への対応」なんだろうか。
敵を作りみんなで糾弾する、それは単なる一時のカタルシスでしかない。日本の将来を左右しかねない原発事故に、そんなステレオタイプの硬直した見方を持ち込んでほしくない。
避難者には補償よりむしろ自立支援を。新たな土地で、誰かから金をもらって暮らすのではなく、自立して生活できるようにするための支援を。そして東電には援助を。自社だけは解決できない技術的な問題に対する世界からの支援を。
そして、現場で働く彼らには、心からの感謝を。彼らが誇りを持って働けるように。
――それらは、決して事故の責任追及や原子力政策の転換と矛盾するものではないはずだ。どうか冷静な議論を。自分のテリトリーから一歩も出ずに非難の応酬ばかりを続けても何も解決はしないのだから。
P.S.
「避難している人の気持ちなどお前にわかるか!」と激怒された方へ。――その通り、僕には多分、わからないと思う。ただ、これだけはいえる。もし自分が同じ立場だったら、この2年の間にどこかに移り住み、そして働いている。間違っても、朝から晩までパチンコをして過ごしたりはしていない。そのことだけは断言できる。
P.S.
9日の朝刊には、避難先で農業を再開している人たちの記事が出ていた。福島から千葉に移った男性は、そこで農地を借り、梨作りを開始したという。素晴らしい。こういう人をこそ応援したいと思う。しばらく前には、福島に残り風評被害に苦しみながら農作物を作り続ける人の話もあった。ぜひ頑張って欲しい(僕はスーパーで福島産の野菜があればいつも買っている)。僕は、彼らをこそ強く支援したい。東電の補償で暮らしている人よりも、ずっと。
その男性のルポが、なんというのか「違う」のだ。なんともいえない違和感を覚えてしまうのだ。「こういうこと、いっちゃいけないんだろうな」と思って我慢していたのだけど、書いてしまおう。
――ルポに書かれていたことを整理するとこうなる。
- 事故のしばらく前に家を購入し住んでいた。
- 福島の事故が起きた。他へ避難。
- 住めなくなった家を東電が補償(要するにお金を払う)。ただし買い取ったわけではなく、「住めなくなったのでお詫びにお金を払います」という話。ほぼ土地と家の査定額に相当する金額を支払う。
- 避難先で新しい家を購入。ただし、元の家の補償額は数百万だが、新規購入した家は2千万。
- 購入した家の代金を東電に請求したら断られた。
- それまで東電から毎月支払われていた1人当たり10万円の慰謝料が止められる。理由は、「新たに家を購入したということは、元の家に戻らずそこで生活を立て直すということなので、家に戻れないことへの精神的な慰謝料を支払う対象からはずれるから」
新規購入した家の代金を払ってもらわないと困る。前の家の補償額では足りない。それに月10万円の慰謝料が止められたら生活できない。事故で住めなくされたからやむを得ず他所の土地に移り住んでいるのに、家を買ったから慰謝料は払えないとはどういうことだ? 調べてみると、女性で結婚したら慰謝料を停止された人もいるという。東電は何を考えているんだ?
……どうだろう。ここまで読んで、「違和感」を覚えなかったろうか。 「……え、なんでそうなるの?」と思った? それとも、「そうだそうだ、そのとおりだ!」と思っただろうか。
正直なところ、僕には東電の対応が「しごく真っ当なもの」に見えてしまうのだ。住めなくなったので家の査定額を補償する。といっても買いとるわけではなく、お金を払うだけ(家は依然として持ち主のもの)。そのお金で、別の土地で家を探すなりマンション借りるなりしてください。――別に、ひどいことをしているとは思えない。
「住めなくなったから補償しろ。ただし、持ち主は自分のままだ。それとは別に新しい家を買ったからその代金も払え」――どう考えても意味不明だ。9日の記事を読むと、「ダムなどでの買取に比べて補償額が少なすぎるのが問題だ。ダムによる用地買収なら2千万近い金額になるはずなのに福島の補償は6百万にしかならない。これじゃ新しい家が買えない!」ということだった。
確かに金額の大小はあるだろう。が、ダムの用地買収のように「買取」ではなく、しばらく住めなくなる補償なのだから、買取金額より下がるのはやむを得ないところもある。(逆に同じ金額にしたら、今度はダムなどで土地や家を失う人のほうが「なぜ、家を取られもしない彼らと同じ額なんだ?」と思うだろう)
それに「この金額じゃ新しい家が買えない!」というが、普通は家はローンを組めば買えると思うんだよね。前の家の補償で、たとえローンが残っていても返済は済むだろう。なら、新たにローンを組んで建てればいいと思うんだが。「誰のせいで住めなくなったと思ってるんだ!」といいたい気持ちはわかるんだけど、その補償だの慰謝料だのといったものと、「新たに買う自分の家の支払い」は別だと思うんだがな。だって、自分の家でしょ? 新築して、これからずっと住める、我が家でしょ? 東電の補償は補償として、新たに住まいを買うなら自分でローンを組んで建てればいいと思うんだけどな。自分の家なんだから。
どうしても「新しい家を買って代金を支払え!」というなら、前の家は東電に渡すのが筋では? 前の家も俺のもの、新しい家も俺のもの、どっちの金も払え、というのはなんかおかしくない? その上、住めなくなった補償ももらうんでしょ? 将来、元の家に戻れたとしたら、新たに買った家は東電に返すの? 「どっちも俺のものだ!」っていわない?
それに、毎月支払われる慰謝料。ご不便をおかけします、更には家やふるさとに戻れない精神的な苦痛をお金で補償いたします――そういうことだと僕は思ってた。なら、「別の土地に家を買ってそこで暮らします」となれば、それで毎月の慰謝料の支払いはおしまい――これは別におかしくはないと思うんだが(だって、何のための「慰謝」なの?)。「慰謝料が止められたら生活できない」というのだけど。
そもそも、なぜ彼は働かないんだ?
どうも今回の一連の記事は、「福島で避難生活を送っているという人って、やっぱりこういう連中だったのね」というある種の不快感を逆に与えてしまってないだろうか。これを読んで、同情する人いるんだろうか。むしろ「我々の支払ってる電気料金でなんだってここまで厚遇しないといけないのか?」と思ってしまわない?
勘違いしてほしくないんだが、僕は別に「福島の事故で避難生活をしている人なんて支援する必要ない」といってるわけじゃない。事故はさまざまなところに大きな打撃を与えた。その影響をもろに受けてしまった周辺の人々のサポートは必要だ。
だが、それは「その他のさまざまな災害で被害にあった人たちより格段に手厚く遇しなければいけない」ものとは思わない。
朝日新聞は、ずっとこの「プロメテウスの罠」を連載し続けている。「福島の事故を風化させるな」と叫ぶ。それはその通りだ。異論はない。だが、福島の事故「だけ」を特別扱いすることは正しいのか。
確かに、彼らは被害を受けた。突然の事故で、故郷から追われ、自宅にも戻れない暮らしが2年も続いている。だが、考えてほしい。彼らは誰も死んでいないのだ。こういってはなんだが「ただ住めなくなっただけ」じゃないのか?
よく思い出してほしい。本当に彼らが「もっとも手厚く支援しなければならない人々」だったろうか。家を失い土地を失い、親を失い、兄弟を失い、友人を失い、仕事を失い、すべてを失った多くの人々が、かの震災では大勢いたはずではなかったか。そうした「親兄弟を殺され、家も財産もすべて奪われた人」より、「原発事故で自宅に住めなくなった人」のほうが不幸なのだろうか。厚遇されるべきなのか。
原発の問題は日本の将来に関わる大きな問題だ。それはもちろんその通りだ。だが、原発事故を大きく取り上げ続けるあまりに、「かの震災=原発事故」であるかのように扱うのはどうなのか。震災のあらゆる悲劇は早々に風化され、ただ原発事故のみがクローズアップされる。その風潮に僕は違和感を覚えるのだ。
津波ですべてを失った人々は、毎月10万円の慰謝料ももらえない。流された家の補償もしてもらえないし、新しい家を誰かが買ってくれるわけでもない。なぜ、彼らがまっさきに救われないのだろう。原発被害の人々が声高に叫ぶのを耳にする度に、むしろ僕は「彼ら以外の人々」を思わずにはいられなくなるのだ。
もっと、目を向けよう。「原発で避難している人々」以外の人々へ。本当に救済すべき人から救済しよう。関連する事故の重大さによって救うべき人の優先順位を変えるべきではない。
もう1つ。これはどうしてもいっておきたい。
原発事故ばかりをクローズアップし糾弾するその姿勢からは、事故発生から現在まで、日本でもっとも過酷な業務につき日本を支え続けてきている人々を正しく評価できなくなるのではないか。
その人々とは、事故から現在まで、福島原発で働いている人々だ。
事故当初、現場に残ることを選択し事故収束に尽力した彼らは、「Fukushima 50」として世界から称賛された。それは、既に終わったことじゃない。今、この瞬間も、事故現場では命がけで働いている多くの人々がいるのだ。
僕が情けなくてしかたがないのは、そうした彼らに対する畏敬の念が今の日本において微塵も感じられないことだ。
原発は、糾弾の対象でしかない。東電は日本の敵だ。――そうした固定された見方からは、「今、事故現場で働いている東電やその下請けの職員たち」をも非難の対象としてしか見られないのではないか。彼らが「やってらんねーよ」と一斉に職場放棄すれば、東日本は人が住めない土地になるかも知れないのだ。いわば、日本の将来は彼らが背負っているといってもいい。
避難者にスポットを当て、東電や原発関係者を糾弾する。それが果たして本当に正しい「原発事故への対応」なんだろうか。
敵を作りみんなで糾弾する、それは単なる一時のカタルシスでしかない。日本の将来を左右しかねない原発事故に、そんなステレオタイプの硬直した見方を持ち込んでほしくない。
避難者には補償よりむしろ自立支援を。新たな土地で、誰かから金をもらって暮らすのではなく、自立して生活できるようにするための支援を。そして東電には援助を。自社だけは解決できない技術的な問題に対する世界からの支援を。
そして、現場で働く彼らには、心からの感謝を。彼らが誇りを持って働けるように。
――それらは、決して事故の責任追及や原子力政策の転換と矛盾するものではないはずだ。どうか冷静な議論を。自分のテリトリーから一歩も出ずに非難の応酬ばかりを続けても何も解決はしないのだから。
P.S.
「避難している人の気持ちなどお前にわかるか!」と激怒された方へ。――その通り、僕には多分、わからないと思う。ただ、これだけはいえる。もし自分が同じ立場だったら、この2年の間にどこかに移り住み、そして働いている。間違っても、朝から晩までパチンコをして過ごしたりはしていない。そのことだけは断言できる。
P.S.
9日の朝刊には、避難先で農業を再開している人たちの記事が出ていた。福島から千葉に移った男性は、そこで農地を借り、梨作りを開始したという。素晴らしい。こういう人をこそ応援したいと思う。しばらく前には、福島に残り風評被害に苦しみながら農作物を作り続ける人の話もあった。ぜひ頑張って欲しい(僕はスーパーで福島産の野菜があればいつも買っている)。僕は、彼らをこそ強く支援したい。東電の補償で暮らしている人よりも、ずっと。
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