千葉県市原市に「市原湖畔美術館」オープン 地方の公立美術館再生の光になるか?
ハフィントン・ポストのこの記事にコメントを投稿したのだけど、見事にボツになったようだ。理由は、皆目わからない気もするが、なんとなくわかる気もする。ただ、せっかく書いたので、ボツになったコメントを以下に掲載しておきたい。
(※追記 ……と思って書いたんだけど、今朝見たら、コメントがボツにならず掲載されていた。はっはっは。というわけで、以下は「ボツになったと思ってたらなってなかったコメント」なのでした)
(※追記 ……と思って書いたんだけど、今朝見たら、コメントがボツにならず掲載されていた。はっはっは。というわけで、以下は「ボツになったと思ってたらなってなかったコメント」なのでした)
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なんとタイムリーな。ちょうど、夏休み中に子供を連れて行こうと思っていたところでした。
私は、市原市民です。市原で生まれ、子供ができてからまた帰ってきて暮らしています。が、そんな私から見ても、市原というところは「アートとは無縁の街」です。文化レベルの低い田舎町なのです。
確かにすてきな美術館ができました。けれど、そこに住む人間の大半は、芸術などというものには興味なんか持っていません。町中を見ればマクドナルドとファミレスと安っぽいヘアサロンと100円ショップばかり。「美しいもの、すぐれているもの」より、「安いもの、だれでも手に入るもの」にしか興味を持たない、そういう田舎者の街なのです。
そもそも、これだけの大きな市でありながら、まともな本屋すらありません。小学校の部活はすべて体育系ばかり、文化系の部活はブラバンすらないところが大半。子どもたちは皆、テレビとゲームにしか興味がなく、子供が学校で「好きな音楽」に「バッハやモーツァルト」と答えるとバカにされる。そんな街に「美術館」をぽんとひとつ作って、何か変わりますか?
よく「ハコモノ行政」といいますが、そこに暮らす人々の意識が変わらないまま、施設だけを作ってどうなるというのでしょう。例えば小中学校から、スポーツ偏重の現状を変え、もっと文化的な活動を高く評価するようにしていくとか、何かしら「文化を育む市」としての取り組みが必要なのでは。そうしたことを何も行わず、ただ「リニューアルして、どこそこで成功してるアートディレクターに頼めばオッケー」という考えでは、また数年もすれば元の木阿弥となってしまいそうな気がします。
そこに暮らす人々の意識が向上すれば、自然とよりすぐれたものを欲するようになります。古ぼけた美術館のままでも、もっと素敵な作品を展示し客も来るようになるでしょう。人々の意識改革のために何ができるか? そこから考えるべきではありませんか。
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別に、何か問題がある表現なんてない(気がする)。が、なんとなくボツになった理由は想像できる。特定の地域を貶めるような発言、また投稿者の個人情報につながるような記述、問題があるとすればこのあたりだろう。
が、これらは市原市を貶めるような発言ではない。ただ、「住んでる人間が感じた本当のところ」にすぎない。実際に住んでいる人間が「ここは○○なところです」と発言することがそれほど問題となるとは思えない。
つまりは、問題発言云々というより、ハフィントン・ポストにふさわしくないコメントとみなされた、ということなのだろう。常に「ボツと掲載のぎりぎりの境界あたりを狙って投稿する」ということを考えている僕としては、そう悪くはない評価だ。
ハフィントン・ポストのように読者参加型のメディアというのは、「メディアが読者を評価する」というシステムに立って運営しているはずだが、これがいつの間にか「読者がメディアを評価する」ものに変わっている、ということが往々にしてある。そのことにハフィントン・ポストは気づいていないのかも知れない。
「編集部がコメントをチェックする」ということは、すなわち「投稿者が編集部のコメント基準をチェックする」ということでもある。ボツになったなら、このように、ボツになったコメントをブログなりで公開し、「これをボツにすることの是非」を世に問うことができる。
というわけで、これからコメントがボツになったら、このブログでボツコメントを晒していこうと思う。ハフィントン・ポストというメディアがどのような基準で物事を考えているのか、それを知り、このメディアの立ち位置がどういうものかを知る手がかりになってくれればと思う。
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