「はだしのゲン」より大切なもの

[子どもが心理的な暴力を受けない権利を無視しないでほしい。] http://www.huffingtonpost.jp/yukari-watanabe/post_5449_b_3783557.html

ハフィントン・ポストに投稿された記事。――しばらく前に、松江市教育委員会が「はだしのゲン」を学校図書室で閉架しするよう指導した(閉架:要するに事務室とかに移して、誰もが手に取れないようにすること。もちろん、先生とかと来て「貸してください」といえば借りられる)。この問題が、けっこうあちこちで話題となり議論されてる。

ただ、ネットなどで見ると、どうもこの問題を「表現の自由」だの「平和教育」だのといった観点からばかり見て論じている印象があって、どこか「違うだろ」という感じがしていたのだけど、このコラムを読んでいくつかコメントをやりとりする中で、その違和感の原因がわかった。

多くの人は、「言論の自由」とか「平和教育」といったものを、決して侵害してはならない、もっとも優先度の高いものと考えているようだ。だが、僕は、「そんなものよりもっと大切なモノはある」と考えているのだ。

それは、「子供を守ること」だ。

「はだしのゲン」は、かなり衝撃的なシーンが含まれているマンガだ。僕も見たのはずいぶんと前のことだからうろ覚えなのだけど、原爆投下の描写などよりも、レイプシーンだの、中国人の首をはねるシーンだの、妊婦の腹を割くシーンだといったもののほうが記憶に残ってたりする。

こんな残虐な描写のあるものが、小学校の図書室に普通に置かれている、ということのほうが僕にはショックだった。

多くの「閉架に反対」する人々はいう。「確かに残酷なシーンはあるが、しかしそれは戦争の残酷さを伝えるために必要な描写だ。戦争というもののリアルな姿を見せ、平和の大切さを子どもたちに伝えるために、この作品はとても重要なものなのだ」と。

つまりは、「表現の自由・平和教育の大切さ」を考えるならば、多少残酷なシーンはあるけれど子どもたちが自由に読めるようにしておくべきだ、ということなのだろう。

それはすなわち、「こどもを守る」ことよりそれらを優先すべき、と考えていることになる。残酷な描写から子供を守ろう、ということを放棄することになる。

あるいは、「子供は、ちゃんと自分が読みたいと思うものをわかってる」という意見もある。が、果たしてそうだろうか。

世の中には「R指定」というものがある。残虐なシーン、性的なシーンがあり、子供にそのまま視聴させるのは好ましくない場合、それらに制限をかけるようになっている。そうすることで、子どもたちを保護するわけだ。「子供は自分でそれを読んでも大丈夫とわかってる」という意見は、すなわち「R指定なんていらない」という考え方になってしまうんじゃないだろうか。それは正しいことなのか?

考えてみて欲しい。学校の図書室にあるすべての書籍の中で、「レイプシーンが描かれてる本」が一冊でもあるだろうか。そんなことはあり得ないはずだ。「はだしのゲン」を除いて。子供に見せるべきではない、そう思えるものは子供が直接読めるところにはおかない。本屋に行けばエロ本は子供が手に取れないところに置いてある。これはアタリマエのことだろう。

「でも、はだしのゲンは他の作品とは違う。戦争の悲惨さ、平和の大切さを伝えるために、子どもたちにこそ読んで欲しい名作なんだ」

その気持ちはわかる。では、聞きたい。「この作品は例外的に子どもたちが読めるようにすべき」ということは、誰がどういう基準で決めるのだ? 「バトル・ロワイヤル」はダメなの? 「あんな作品、ダメに決まってる!」って? なんで? それは誰が決めるの? で、その判断は、いついかなるときも「正しい」の?

そんなことを完璧に正しく判断できる人間などいない。その評価は時代や社会によって微妙に変化するだろう。そもそも「R指定」は、発禁ではない。普通に売っていいし、普通に図書館においていい。ただ、「子供にはそのまま見せるな」というだけのことだ。

だから、「どんな作品であれ、レイプシーンがあったら子供に直接見せたらダメ。必要なら先生や保護者と相談して貸し出していいか決めればいい」というのは、しごく真っ当でわかりやすい考え方のはずだ。別に「図書室に置くな」とか「廃棄しろ」とか「絶対見せるな」というわけじゃない。「見たかったら保護者や先生と相談してから借りなさい」ということなんだから。

それに、今の日本、学校の図書室にいかないと本が読めないわけでもない。普通の図書館もあるし、町には本屋もある。Amazonで注文すれば次の日には届くだろう。こんな「学校図書室の閉架」がなんだって表現の自由だのにつながるのか皆目わからない。

「いや、それじゃだめだ。学校の図書室に普通においてあるから、読むんだ。学校の図書室のつまらなそ~な本ばっかり並んでるところにマンガが置いてある。だからみんな読むんだ。そして平和の大切さ、原爆に悲惨さを知るんだ。そこが大切なんだぞ!」

そういう意見もあるだろう。そういう子供もきっとたくさんいるだろう。そして僕は、「そんな子供には読ませない方がいい」と思う。他にもいろんな本を読んでいる子供が、そうした中の一冊として「はだしのゲン」を読むならまぁあまり不安はない。心配なのは、「ろくに本など読まない子が、学校の図書室にあるマンガだからということで、『はだしのゲン』だけを読んでしまう」ことだ。そのほうが読まないよりもはるかに恐ろしい。

この世にはたくさんの作品があるが、どんな名作であれ、「それ一冊だけ読めばOK」なんてものは存在しない。世の中でもっとも広く読まれているのは多分、「聖書」とか「コーラン」じゃないかと思うのだけど、「これだけしか知らない」人間がどういうものか、なんとなく想像がつくんじゃないだろうか。「はだしのゲン」が平和教育にどれだけ役立ってるか知らないが、「それだけしか読んだことがない」という人間の平和思想を僕は信じない。

よく、「学校の図書室にあったマンガだから読んだ。それで戦争の悲惨さを知った」という人はいるんだけど、そうした人が、その後、例えば「8月がくるたびに」や「ガラスのうさぎ」を読んだろうか。「黒い雨」や「夏の花」を読んだか。……というと、たいていは「はだしのゲン」以外は知らなかったりするんだよね。

「はだしのゲン」だけでなく、その他にも幅広く本を読んでいる子ならば、たとえこの作品が学校の図書室に普通においてなくとも、どこかで知って読むだろう。そうした子が読む環境は日本ではちゃんと整っているのだから。むしろ、「学校の図書室で漫画を読むぐらいしか読書体験がない」という子が「はだしのゲン」を読むことの功罪を僕はもっと深く考えるべきだと思う。

そもそも、なぜ「小学生の頃に」読まないといけないわけ? 中学校や高校じゃダメなの? その頃になって読んだら戦争の悲惨さは伝わらないわけ? 戦争の悲惨さ・原爆の悲惨さは、「幼い頃、トラウマになる」経験がないとわからないの? んなわけないでしょ。もっと成長し心もしっかりとしてから読ませればいいだけじゃない? それで、幼稚園を卒園したばかりの小学校1年生が女性の膣に一升瓶をつき入れて殺されるシーンを不用意に目にして登校できなくなる危険を防げるならね。


……「はだしのゲン」は、後半が左系の出版社から出されたこともあって、天皇批判だの反日教育だのといったイデオロギー的な論争に常にさらされてきた。「はだしのゲンを支持」というとすぐに「左翼だ」と批判され、「はだしのゲンを批判」というとすぐさま「右翼」といわれる。そういう状況が、殊更にこの問題をややこしくしているように思う。その内容のイデオロギー性を、この問題で持ち出すべきではない。よく政治の世界で「政争の具」というが、この問題を「イデオロギーの具」にしてはならないと思う。

「表現の自由」も「平和教育」も、「そのためにはどんなことも認められる」わけではない。そんな「無制限の自由」を認められている権利などこの世に存在しない。どんな権利であれ、それは「この範囲の中では」という制約が付けられている。そしてどんな権利も、同じではなく優先順位がある。

「子供を守る」という権利(といっていいだろう)は、表現の自由や平和教育の重要性よりも優先して考慮されるべきものだ。僕はそう思う。そこに例外を認めるべきではない。日本は、「子供の人権」に関し、あまりに無頓着すぎた。ぼちぼち「自分たちの常識は、子供のことより大人の都合を優先してるんじゃないか」ということを考えるべきじゃないだろうか。

「子供を守る」ことより優先すべき権利など、ない。



※――その後、閉架措置を撤回するという報道があった。「手続きに不備があった」というその理由は確かに考慮すべきで、閉架措置を撤回したことそのものは理解できる。ただし、「だからそれぞれの学校で判断して」というのは判断の放棄だ。これを機に「はたして過激なシーンを含む名作はどこまで子供の閲覧を認めるべきか」ということを改めて議論する機運が高まることを期待したい。これで「一件落着、はいおしまい」じゃあまりにもったいない。

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